ぼんくら解体新書

俺は絶対サブカル男子ではないっ!

『おやすみプンプン』感想。僕の世界は君のもの

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こんばんは自称バームクーヘンです。

浅野いにお作『おやすみプンプン』は単なるサブカル登竜門みたいな漫画ではないと思ったので、僕が感じたことを書きたいと思います。

 

(全13巻、拾いどころがたくさんあるので僕が感じた特に特に重要なキーワードだったりシーンのみについて書いているのでそのへんはご了承ください)

 

まず、

・神様とは何か?

神様というワードが一巻から最後までよく出てきます。このワードは『おやすみプンプン』の物語上のひとつの重要なキーワードなのでしょう。

さて、登場人物たちにとっての神様とは何でしょうか。まず、プンプンにとっての神様は、幼い頃から「神様神様チンクルホイ」と唱えれば大概は出てくる存在でした。神様はめちゃめちゃプンプンを否定することはなくプンプンの味方でした。それはプンプンの自問自答に近い。自問自答や俯瞰して自分を見た時に人からどう見られるかや、「普通」とは何かを誰か普通の人に聞きたいときにプンプンは神様を呼んでいたように感じました。プンプンは普通の少年、青年に思えるが、俯瞰して自分を見たり、自分を守るために「普通」になりたい欲が強かったように思えます。

そのため、「普通」を信じるプンプンは俯瞰でプンプンを見てくれる存在を神様としました。「普通」っぽいことを言わなきゃいけない場面や当たり障りない行動を取らないといけないとき、自分を指南してくれる存在を神様と位置付けたのです。

ただ、いわばその神様はプンプンが神様と言ってるだけで、本当は自分自身であり、プンプンが想像や妄想を膨らまして相手の意図を読み取らなかったり、自己完結して対人関係を終わらせる性格に付属してる神様でプンプンのダメなところの象徴でもあると思います。

 

一方、愛子ちゃんはどうでしょうか。

愛子ちゃんは家庭がプンプンよりも複雑でエセの神みたいなのが近くにいる環境です。エセのせいで世界に神様なんていない、自分に救いはない、誰が自分を救ってくれるのか?みたいな問いを小学生の頃から持っていたように思えます。そういった意味では愛子ちゃんも「普通」になりたい、「普通」を信じていてそこはプンプンと似ていたのではないでしょうか。

これは非常に重要かなと思います。おやすみプンプンは「普通」になりたい2人の"特別な"物語なのです。

ただし、プンプンは漠然と「普通」て良いよなて感じであったが、愛子ちゃんはそのバックボーンがゆえに、強く「普通」を求めていた。

 

他の登場人物たちにもそれぞれの神様はいました。共通しておやすみプンプンでは「自分が信じるもの=神様」だと定義付けられていると思います。日本ではキリストも仏教も強く根付いているわけではないので、個人の想いをそのまま神様レベルまで引き上げちゃう癖があるのかな、なんて思ったり。

ただ「自分が信じるもの=神様」というのは凄く読者も共感しやすいのかなと思います。だって、誰だって嫌なことがあったり、解決してほしいことがあれば何かわからない存在に対して「お願いします」て心の中で思ったりするじゃないですか、対象が不明なのに祈る、その不明な対象が神様なんじゃないかって僕は思いますし。

 

さて、プンプンと愛子ちゃんはそうやって「普通」に生きたい願望を持ちながら日常生活をそつなくおくります。しかし、やがて日常だけでは面白くなくなってきてしまう。終わらない日常、それは退屈で暇だ。じゃあ何が自分を刺激させるのか?

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・普通の否定

物語が進むに連れて、普通に憧れる2人は成長していくと普通のムダさ、ダメさを目の当たりにします。普通に見える家庭、叔父さん、世間などはそんな綺麗なものでもなんでもない。世間のいう普通とは、すごく簡略化すると、趣味では流行りの音楽を聴いて、映画を見て、〇〇歳で結婚してその後子供ができて、マイカー、マイホーム買って何気ない日常を過ごすという意味でしょう。「そんなの面白いのか?」、普通に少しでも希望を持っていた特別な2人は考えます。

愛子ちゃんは中学になり普通に恋愛してみるが、プンプンも愛子ちゃんと離れてから普通に恋愛しようとするが、何か違うなと感じる。2人は「普通」をどんどん否定していきます。ただ、歳を重ねるにつれて「普通」でないと社会の輪からは外れてしまう。しかし2人は普通を否定する。

このねじれ現象は物語の後半に大きく作用してきます。ねじれが爆発したとき、一線を超えてしまう。

普通を否定し、刹那的なものを求めてしまう。あの頃の愛子ちゃん、あのときのプンプン、あの瞬間に結ばれたい。結ばれて終わりたいと考えてしまう。普通を否定することで、社会の輪からは外れていくのです。小学生のときにつるんでいた友達たちが知らないうちに離れていくのもそういうことでしょう。

普通を否定することは言い換えれば、日常ではなく非日常を求めること。それは日常が遠ざかっていくさま。プンプンも愛子ちゃんも日常を欲するのに、特に物語の後半でお互いの刹那的な愛に惹かれてしまう。

物語の後半で愛子ちゃんはボロボロの身体で爪を噛みながら「普通でいいの普通で」と言います。なのに、非日常を求めてしまう。プンプンを求めてしまう、そこまでしても2人になりたい強い気持ちだから特別な物語であり、読者が惹かれる所以じゃないでしょうか。日常よりも非日常へ、退屈の反対は事件なのです。終わらない日常を捨てて、退屈な毎日を捨てて、好きな人を求めてしまう。そういう2人の物語なんじゃないでしょうか。

なぜ2人は惹かれるのか?2人の共通点は何なのか?

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・自分の居場所

プンプンと愛子ちゃんは前述のように「普通」になりたいが、同時に非日常も求めている。いわば何がしたいかわからない状態なんですが、それは言い換えれば自分探しではないが、何かを探している状態なんです。その何かとは、所在=居場所です。心の拠り所がない、プンプンの父親はどこかに行き母からは愛されず、対人関係もどこか俯瞰して行動してしまう。愛子ちゃんは家庭に難あり、普通に恋愛しても上手くできないし、救ってくれる人も現れない。2人とも心の居場所がないのです。帰る場所はあれど、心の帰り場所が不在。これは読んでいる読者もある程度共感できる部分でしょう。そして、その空虚な現代的な悩み。トポスがない、僕はそう感じました。自分の居場所、心の拠り所、所属という意味であるトポスには〈存在根拠としての場所〉〈身体的なものとしての場所〉〈象徴的なものとしての場所〉という意味があります。近代はトポスが失われて路頭に迷ってしまう人々が大勢います。

おやすみプンプンは裏テーマで現代のそういった寂しさも表現していると思います。トポスがないから非日常を求め、自分を変えてくれる、退屈な毎日を変えてくれる事件性を求めてしまう。

現実で愛子ちゃんや、プンプンを求めている、実際に居てくれたらなあと思う読者もいくらかは存在していると思います。自分はたしかにこの世に存在して帰る場所があるのだ、そう感じさせてくれる相手に出会いたいでしょう。僕と君だけの世界でありたいでしょう。

 

・僕と君の世界

「この人はちがう」

感覚的にそう思うことは誰しもあるでしょう。プンプンにとって愛子ちゃんがそうでした。愛子ちゃんにとってプンプンがそうでした。親から支配されてきた愛子ちゃんはコントロールしたい欲を潜在的に持っていたと思います(個人的見解)

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だから何色にも染めれそうなプンプンのことが好きになった。恋という呪いをかけた。「この人なら」という願望を込めて。そして2人は普通に生きたいが普通を否定し、非日常を求めます。なんとなく生きていてもふとしたときに出会い、惹かれていく。バス停で、電車のホームで、教習所で。思えば愛子ちゃんと偶然出会うときは乗り物の近くだったように思えます。これが意味があるのかはわかりませんが、現状から離れたい、場所を変えたい、その想いに意味を持たせているのかもしれません。

物語の中盤で2人は出会い、ついに関係を持ちます。非日常にどんどん突き進みだします。日常を捨て、非日常の方に走る。

それまで社会をなんとなく生きてきた2人はどんどんと、2人だけの世界に移行していくのです。少し前もって説明すると、社会というのはいわゆる現実的な日常の話です。学校での社会、仕事場での社会、つまりは終わることのない日常。しかし、物語の中盤以降で2人は日常の社会はクソだと実感します。社会はクソだから見限ってそれよりも夢見て2人の世界に、生きている実感を見出そうとしたわけです。

でも、ここでパラドックスに陥るのです。その夢見た2人だけの世界っていうのは手に入れても、現実的には自分自身は社会の中に帰依するために、夢見た世界を手に持っただけで、それすらも社会、日常の一部になってしまうわけです。つまりは手に入れた瞬間に夢見た【世界】は消えてしまい、結局のところ幸せと呼べるものを実感できなくなる。

ただ、愛子ちゃんもプンプンもおそらく「それでもいいや」って思えれる存在だった。

愛子ちゃんの母親を殺してプンプンは思いました。

「この世界はもう僕のもの」と。そして愛子ちゃんと旅するうちに変化していくのです。「僕の世界は君のもの」と。

「僕の世界」イコール「君と僕の世界そのもの」あるいは、「僕と君の世界は世界そのもの」というような感じです。

僕の存在と世界の存在が直結、イコールの関係になり、プンプンと愛子ちゃんの内面と世界の存在概念が直結している感じです。

愛子ちゃんとプンプンは愛子ちゃんの母親を殺しました。

支配してきたものを殺すことで、愛子ちゃんは何にも縛られなくなります。プンプンは愛子ちゃんと2人の世界に浸ることで社会から解脱しました。彼らにとって社会的に何が善で悪かなんて、もはやどうでもよくなるんですね。社会から逸脱しても、好きな存在。特別な存在。

だから、もう2人に常識は通用しません。2人だけの世界になったから、社会なんて関係ないもの。そして、彼女を守ることがプンプンにとっての生きがいなのです。だから2人だけの世界の変化は許されない、それがプンプンが自分自身を保つ唯一の方法なのです。愛子ちゃんが変わることも許されない。だから旅の途中で暴力的に愛子ちゃんをコントロールしようと(自分は)変化する。愛子ちゃんはプンプンをコントロールしたかったが、プンプンも支配されてきた人生なので、相手を支配しようとする。見方を変えれば支配するかされるかの関係性にも悲しいけど、なっているのです。

 

・2人の世界から再び社会へ

愛子ちゃんは自殺し、プンプンは死んだ愛子ちゃんをおんぶして歩きます。なぜ?

プンプンにとっての生きがいは愛子ちゃんを守ることだから。もう喋れないのに、信じたくなくてそれでも2人であり続けようとします。しかし、それもそんなに長い時間はできない。いよいよ1人になったプンプンは小さい頃から内面にいた神様と会話します。神と対峙し、「お前が死ね」と言い放ちます。そして自分を刺しますが、これは僕は成長の意味と捉えました。内面にいた神様を殺し、自分と一体化する。本当に死ぬわけじゃなくて、一部を殺すことでプンプンは飛躍するのです。

これまで触れてこなかったですが、物語ではもっともっと色んな人たちがいてて、プンプンを助けようとします。人との繋がりが希薄になる現代でも、おやすみプンプンで描かれてた星空のように、小学校のときのあの人、仕事場のあの人、それぞれに物語があり、ドラマがあり、すべて星のごとく輝いていているのではないでしょうか。

おやすみプンプンは鬱漫画、サブカル登竜門の漫画みたいな枠では収まりません。

浅野いにおは社会の目立たない人たちにスポットライトを当てて特別な物語にする天才だと思います。そしてそれぞれの星が繋がって物語が繋がっていて星座のようになる。

 

愛子ちゃんやプンプンのように「僕の世界は世界そのもの」という考えは、他人の心を写して自分を見る過程をすっ飛ばすため、自分の世界に閉じこもったり、社会はクソだから自分も他人もみんなクソって潜在的に感じてしまうかもしれません。それはそれで良いですが、どのみち社会はクソなんだから自分の日常を変えるしかないわけです。最後まで読んで僕はそう感じました。

プンプンは変化を恐れて、愛子ちゃんをコントロールしようとしたし、愛子ちゃんもプンプンをコントロールしようとした。ほんとは、変化し続けるのが僕が僕である理由で、君が君である理由なのでしょう。刹那的な運命は一瞬で散ってしまう。だけど、その一瞬が美しくて惹かれてしまう。悲しいけれど、2人の特別な物語にはかなり惹かれました。

群衆の1人にしかすぎない孤独感が蔓延する現代で、2人は運命の人と出会い一瞬でも光ったのだろう。そして、かつての知人や友人の輝いた物語とも繋がってラストにそれぞれが繋がる。星座のように

偉大な漫画でした。

 

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魔法使いではないけれど

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UFOキャッチャーをしに行った。

新宿へ

 

歌舞伎町にはゲームセンターがやたらとある。

一階にはUFOキャッチャー。

おれはデカいのを取るんや!

 

デカいぬいぐるみ、デカいぬいぐるみが欲しいなと、どれにしようかと選ぶ。店内には外国人だらけ。ここは新宿

トー横界隈の連中は外にいて、ゲームセンターにはほとんどトー横界隈の人はいなくて、外国人観光客が楽しんでるスポットになっていた。

 

「ha ha ha ha‼︎」

 

外国人の大きな笑い声が聞こえた。

みると、屈強な欧米系の外国人男性4人くらいが手に収まるくらいの柴犬のぬいぐるみを取っていたのだ。🐕🐕🐕🐕

楽しそう~

柴犬を持ち、ガハハハと笑っている。正直、めっちゃ楽しそう...

みんな柴犬持って帰ってる...

 

おっと、俺はポケモンが欲しいのだ。

ピカチュウのぬいぐるみのUFOキャッチャーがあってそれに挑戦してみた。

 

100円、200円、...500円、1000円とチャリンチャリンと入れていく。

ピカチュウはコロコロ転がるだけで取れない!!

くそ!!!

 

外国人ならFワード飛び出しそうなとき、気付いたら周りには外国人観光客がたくさんいた。

 

そう、気付けば俺がチャリンと小銭を入れてピカチュウをキャッチし、上までいくと外国人たちは「ワオワオワーオ」みたいなことを言い、アームからピカチュウが落ちて失敗すれば首を振りながら「oh..no」と言っていた。

さすがピカチュウ

俺はゲットしたい。ピカチュウを!

 

1000円、1100円...1500円、投入していくが、

取れない!!

ギャラリーも見ている。

変な感じの空気になってきている。

 

外国人の子どもから何か言われたけど、訳せない!ごめん!

 

また、取れない

すると外国人の親子の父親が俺をみて「no wicth!」と言った。

 

wicth??聞いたことある単語

 

wicth.

魔女、魔法か!

のーうぃっち

 

えー、

おいおい、俺は

魔法は使えないってか〜!?!?

 

そしてまた小銭を入れる。魔法は使えないけど小銭は!、、、まだ、ある!!

 

取れない!!何回やってもピカチュウはコロコロするだけ!むりだ!

魔法は使えない!

 

No wicthだ

 

しかし、外国人は明るい

「それは取れないワ」みたいなことをたぶん言ってる。

外国人母「それは取れないワ」

外国人息子「そうだヨ」

外国人母「違うのをしてみてはどうかしラ」

外国人息子「そうだヨ」

 

みたいなことをたぶん言ってる

しかしこれは想像。想像の会話。

俺は英語に弱い。

確実に聞こえたのは、「ha ha ha」という笑い声とそう、あの言葉

 

「NO Wicth」

 

 

 

 

なんやかんや外国人は明るくて陽気で知らない日本人がやってるゲームにものってくれる気さくな人たちだなと元気が出ました。

外国人のあの明るさには元気をもらったよ。

ありがとうございました。

あの人たちの旅が楽しくなりますように!

魔法は使えないけれど、願います。

 

 

 

 

VaVa 『VVARP』感想/又は僕は如何にしてHIPHOPを好きになったか

こんばんは自称バームクーヘンです。

先日、恵比寿リキッドルームにてVaVaさんのワンマンに行きました。

 

アルバム『VVARP』で感じたこと、ライブに行って思ったこと、てかそもそもヒップホップを聴いてこなかった僕が聴くようになったことを思い出し、記録として残したかったので諸々書きたいと思います。

※個人の感想なのであしからず。

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『VVARP』

アルバム、VVARPが2022年6月初旬に配信され、僕はすぐに全曲聴いた。めちゃめちゃテンションが上がったし、配信された翌朝の通勤中にも夢中で聴いた。で、全曲僕は好きなのですがアルバム後半の『Bad Day』の歌詞に特に心を掴まれた。

「みんないなくなればいいのに と思ったことすら余裕であった」

そして、

「苦しくて足をかけたベランダすら今見えるただの1ページに」

この部分の歌詞で特に特にガツンとやられた。

なぜそう思ったのか、それは僕がなんとなくヒップホップは明るい歌詞で根明(ねあか)の人が歌うものだと潜在的に思っていたからだ。(超偏見なの、勘弁して)

vavaちゃんの曲は1stアルバムから聴いているし、他のラッパーの音楽も聴いているけれども自分の心の中の根底の根底にそういう想いがあった。

だけれども、vavaちゃんの『Bad Day』を聴いて気付いた。根明とか、根暗とか、イケてるとか、イケてないとかそんなの関係なくてみんな一緒なんだと。誰しもが楽しいこともありゃ辛いこともある。

これは当たり前のことやけれども、捻くれた26歳社会人の俺からしたら大きな気付きになった。泣いた。

隣の芝生は青く見えるもの。

VVARPに収録されている曲は一人称が「俺」で歌われることが多く、ダイレクトにvavaちゃんの歴史や想いが伝わってくる。意思表示、存在証明のように思う。

このアルバムは好きなもの、楽しかったこと、辛いこと、憶測やけれども、vavaというひとりの人の膨大な量の歴史のデータのカケラを集めて物凄い大作になっている。

そして自分の人生を歌にするとともに、曲の方向が内(自分だけ)に向かっているのではなく、外(他人の人生)に向けられているように感じた。『In My Sign』、『type』は特にそう感じた。自分もひとりだがあの人もひとり、そういえばアイツは今、何してるんだろうって思うことは誰しもあって日常の一コマを美しく曲にしている。他人なんてどうでもいい!て思うこともあるけれど気になっちゃう自分もいたりして、そのあたりを表現していると勝手に思った。

『夜/HACK』『Gatsby』では自分の歴史とともに、他人の人生に興味というか、曲の力が外へ外へ向いていて他人も巻き込んでもっと上へ上へという意志を感じた。それも無理強いな感じでなく、その人の生きるスピードに合わせてね。これはHIPHOP文化の根底にあるマインドかもしれない。表現して同じ想いの人たちを巻き込んで大きい波にする。そして皆で高みを目指す、みたいな。

さらに音楽を始めるきっかけ?の1人になったtofubeatsとの曲の名前は『夢のまた夢』

自分の人生でのダークな部分という意味でいうと直接的な言葉を使った曲名の『complex』もある。

ひとりの歴史を語るという意味では『tatu』なんて凄く伝わってくる。タトゥーは一生ものやし、その人の歴史を身体に刻んでいるアートやと思う。かくいう僕も映画が好きで大好きな映画にまつわるタトゥーを入れている。そんな個人的な想いもあり、この曲はアルバムの中でも特に印象的やし好きだ。

そして、同作のMVは光と闇の狭間で揺れ動く、まさに闇に行き光に奉仕するようなvavaちゃんを象徴的に描いていることがわかった。

時には人は闇に、でもまた立ち上がって歌う。

MV、抜群にかっこいい。

『YANKEES』では僕は映画『ファイトクラブ

を思い出した。

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この映画はなんてことないサラリーマンがワイルドな男に憧れていくうちに日常の自分とワイルド男に憧れる自分のどっちが本当の自分かわからなくなる映画だ。僕はvavaちゃんに憧れちゃうよ〜。

『Reloadin'』『イノセントエクスプレス』なんか、ほんとに現在までの歴史を歌っている。いろんな人の人生がのっている電車、毎日当然のように走っているけれども思えば全部が特別な列車に思えてくる。

『Mugen』はめちゃめちゃのれるし、ワン!て犬の声が印象的。そして普遍的な存在の初音ミクも出てくる。過去から未来へのことを歌っている気がする。過去があってだから未来はこうなるではなくて、未来はこうしたいっていう着地点。

 

VVARP 恵比寿にて

6月28日、僕は恵比寿リキッドルームで行われたライブに行った。

ヒップホップのライブは大阪でやっていたcircus circusというフェス以来だった。

ヒップホップのライブってどんなんやろって思っていたし、正直なところ僕はかなり内気なのでのれるか心配だった。しかも行く人たちは根っからのイケてる人たちばかりやろなとビビってた。

極端にいうとこんなダサ坊が行っていいのか!?て。言っちゃうと、畑違いなんじゃないかとすら思っていた。

でも、ライブが楽しくて面白くてなんかみんなで作り上げてる感じがめちゃめちゃ良かった。気付いたら俺はむっちゃ楽しんでのっていた。

『夢のまた夢』、この曲の「でもこのままでいい!いい!いい!」「Ah!Ah!Ah!」「愛!愛!愛!」てところが特に特にブチ上がった。

 

mcも面白いし、客演も豪華でこんな経験していいの!?てなった。仕事帰りの人が感覚で7割くらいいて僕もそうだったので心の中で「一緒や!」て思った。絶対にまたライブに行く。vavaちゃんありがとう、ヒップホップありがとう〜って心から思った。電車の中で当日配られた冊子を持って帰宅した。

あれ?、いつから?いつから?いつから、

僕はヒップホップをいつから聴いているのだろう。

 

ヒップホップを聴くきっかけ

僕はいつからヒップホップを聴くようになったのか。そもそも高校になるくらいまではヒップホップはちょー明るくてヤンキーがデカイバンかセダンに乗りながらドゥン!ドゥン!て鳴らす音楽やと思っていた。(偏見やけれど高校生の頃の俺が思っていたことなのであしからず)

なので高校に入るくらいまでは嫌いではないけれど好んで聴いているわけではなかった。

ところで、僕は昔から映画が好きで映画音楽も好きだ。映画のサントラを高校生の頃によく聴いていたし、TSUTAYAで探しで聴いたりしてた。

学生時代は映画を見まくって劇中に出てきた好きなセリフをメモってしんどいときにそれ見て奮い立たせたり、劇中歌を聴いて映画の中に入った気分になっていた。

そして、映画を見ていくうちに誰かの感想や解説が知りたくなり掘っていくとある人物に出会った。

RHYMESTER宇多丸さんだ。ラジオで映画の感想、解説をしていてよく聴いた。それでRHYMESTERを知り、ヒップホップの扉を開けてくれた。RHYMESTERの『前略』という曲の宇多丸さんのバースはぼんくら男を目覚めさせる言霊だ。そして、そこからどんどん自分の中でヒップホップ文化が広がっていった。RHYMESTERのアルバム『Bitter, Sweet & Beautiful』でPUNPEEを知った。

PUNPEEを知り、summitという事務所を知った。

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ここからは凄い勢いでsummitに所属しているミュージシャンのことを聴いていくことになる。もちろんvavaちゃんも。

こうして僕は映画を起点にして、HIPHOPを知り、音楽の幅がものすごく広がった。特にヒップホップ以外のカルチャーも取り入れている人たちの音楽は聴いていて面白い。vavaちゃんがゲーム音楽の要素を交えているのもそう。真相はわからんが、vavaちゃんとbimの「Hana-bi」は北野武監督の映画『HANA-BI』の影響下にあると思っている。

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ちなみに、vavaちゃんの『ロトのように』のMVでは同監督の『菊次郎の夏』のポスターが出てくる。vavaちゃんは北野武監督作品が好きなのかなって勝手に思ってます!

曲から感じ取れる色や世界観はキタノブルーを感じるし。

このように、好きなものと自分の世界をミックスさせてオリジナルの作品たちを作っている。こんな面白いことない。

僕が初めてvavaちゃんの音楽を聴いたのは『現実 Feelin'on mind』だった。初めて聴いたとき、まだvavaちゃんがどういうものが好きとか知らずに聴いたとき、なぜか僕は小学生のころに夜に親に隠れてやってたゲームボーイアドバンスポケモンを思い出した。あの、ぽちぽちボタンを押すかんじと単純だけど特徴あるあのBGM、無限に広がるポケモンの世界。

それを思い出した、そして歌詞に登場する田中ひろかずミュージックとはなんぞや?と思い調べた。

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ん!?

田中宏和ゲーム音楽の作曲家だ。点と点が繋がる。僕は26歳なのでvavaちゃんとは少し歳が離れているけど同じ世代といえば同じ世代。

あのとき、それぞれひとりで部屋で冒険していた少年少女がいて、過去にそんな経験がある僕やその他の大勢の人が今、大人になってゲーム音楽が好きなvavaちゃんのライブに行って「田中ひろかずミュージック揺られて思い出す!」と歌っている。面白い。というかヤバい。語弊力!て感じやが、これはマジでヤバい。

めちゃめちゃ面白い。

 

VVARP🚀

アルバム『VVARP』、そしてvavaちゃんのワンマンは色々僕の中の気持ちを動かしてくれた。

アルバムからはひとりの人間の辛いこと楽しいこと、好きなものが詰まった音楽を聴いた。

過去にいろいろあったけれども、だから、俺はやるんだよ!て強いメッセージを感じた。

ネガティブになることはあってもそれを無理なくエネルギーにして、あまりよくない自分の記憶も踏まえて生きる。好きなものはなくならないし、みなでかましてやろ〜て気持ち。

内に内に、ではなく外へ外へ

なにかあればワープすればいいし、やなことがあれば好きなものが同じひとたちとサイゼで話しあいたい〜。

VVARPを聴いて、ワンマンに行って改めて思った。僕にはまだまだ知らないカルチャーがある。

もっと自分の脳内の宇宙を探索したい🚀

言い換えれば選択肢は無限大!?

ps.高校生の頃の俺、26歳のお前はちょーかっこいいvavaていうアーティストのライブでのっているぞ!大丈夫!

 

以上

 

最後まで読んでくれてありがとうございました。

まだvavaさんの音楽聴いたことがない人はぜひ聴いてほしいなあ

 

 

『ボクたちはみんな大人になれなかった』に感じた疑問

自称バームクーヘンです。

『ボクたちはみんな大人になれなかった』を見ていろいろ考えることがあったので書きます。

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普通とは

劇中、20代の頃のかおり(役:伊藤沙莉)は「普通」という言葉をよく使いますし、その言葉はこの映画のキーワードになっていると思います。

「なんか普通だね」「それって普通じゃない?」かおりは普通を毛嫌いするような言葉を20代前半の頃の佐藤(役:森山未來)に言います。

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かおりの言う普通とは、すごく簡略化すると、趣味では流行りの音楽を聴いて、映画を見て、〇〇歳で結婚してその後子供ができて、マイカー、マイホーム買って何気ない日常を過ごすという意味でしょう。

 

さて、46歳になった佐藤はFacebookを見るといかにも普通な生活を送って幸せそうにしているかおりを見つけます。それを見て「ほんと、普通だね」と言います。

佐藤は彼女のことが忘れられず、引きずっています。それから過去を振り返る物語が始まる構成です。

僕はこの映画を見て、過去を振り返っても良いけれども過去を振り返るだけじゃなんにもうまねえんだなと思いました。過去を振り返って成長する、とかなら気持ちよく見れたと思います。ていうかそうじゃないと2時間も何を見ているんだという話なんですよ。

乱暴に言うと映画と対話したいのに、作者のオナニーを見ている感じでした。

 

佐藤は引きずり続けるでしょう。

なぜなら佐藤は過去を見ているから。今のかおりではなく、「普通」が嫌と言っていた過去のかおりに捉われているのです。そしてそれに共鳴して欲しいからこの映画、この物語を書いた。

かおりの20数年間にフューチャーした物語なら特別な何かを享受できたでしょう。なぜならかおりは成長しているから。しかし、過去に捉われて感傷的になった男の話を2時間見ても普通なのですよ。物語がちょー普通なのです。

だから僕が思うに役者を森山未來にしたり、エモい感じを存分に演出したり、今の30代40代が刺さる音楽や文化を物語にむりくり組み込んだのやと思います。

 

音楽で釣る手法

前回記事の『花束みたいな恋をした』でも書いたのですが、ある特定の層にささるようなカルチャーを物語に入れることでその映画が良いと勘違いさせるやり方が最近多いと思います。

これは映画だけじゃなくてたとえばMVとかでもそう。好きな映画のポスターが作品に登場していたら反応してしまう、これは誰でもあると思います。

それが物語に直結していたら良いですよ、たとえば主人公がその映画を見てから頑張るとか。ではなく、パラパラとある層が刺さるカルチャーを出してくるやり方が最近多いと思います。そうすると勘違いしてしまってそれをエモーイと思ってしまう。そんな演出めっちゃ安易じゃないですかね。

ボクたちは〜は過去を振り返る物語なので、当時のカルチャーを通して過去を振り返るという点ではその演出は当時の音楽を流すことで演出されていますが、ここで感じた問題が1つありました。

 

思想のない演出

過去に流行ったカルチャーを垂れ流すことで、観客は過去を振り返る作業を簡単に行えます。ただ、そこには「懐かしさ」のみで現在と過去を対比するにあたって過去は過去で切り離され、現在は現在であるだけのように感じました。その演出は「懐かしさ」を演出したいだけでもっと深い思想、気持ちがないように思えました。

僕が見た限りでは、カルチャーは映しても登場人物が何故それを好んだかのような背景を演出していないように思えました。だから、音楽やその他の演出、過去と現在が繰り返されるのみで、繋がりがなく、ぶつ切り感覚に思えた。

佐藤とかおりの恋愛事情と、2人が好きなものは別の次元の話ですからね。だから背景を見せなければならないのに2人が当時背負っていた背景を見せず、当時のカルチャーだけであの頃を語ろうとする。それは懐かしさを消費しているだけですよ。

作品内ではワードやファッションのみだけ見せて、いとも簡単に消費されてしまう。そこにリアリズム、物語性は感じません。ただ挿入歌として、ただファッションとして、ただワードとして出てくるだけです。

じゃあなんでそういうあの頃の文化をパラパラと出してくるのか。それはそれらをなくすと単なるありきたりな恋愛映画になるからです。

かおりの言う、普通のラブコメになるからです。

 

疑問

この映画を見て1番疑問に感じたことは、今のかおりのいわば普通の人生を少し否定的に描いている点です。普通の人生を歩んだかおりに「普通だね」という男、佐藤。

過去に縛られて普通じゃないように振る舞った結果、思ってたような大人になれなかった46歳の男、佐藤。

お前、感傷してるだけやん!!

 

まあ感傷するのは良いですよ。全然良いです。だけども、それをしてなにを受け止めれば良いの?ボクたちは。

って思ってしまいました。かおりは変わりました。しかしその変わった姿、成長した姿は写真しか写らず、今のかおりの気持ちは見せてくれないのです。佐藤中心で世界はまわっているのですよ。「自分=世界」だと思ってるから感傷しすぎるんじゃねえの!

僕が思うに、世界は変えれないし、日常はいつだってクソなんですよ。だから個人の領域で日常を密にするしかないのです。普通が嫌だって言ったって非日常ばっかりじゃそれが日常になっちゃうし。そして、感傷するにしても、過去を振り返ってあの頃のあの娘に恋をし続けるにしても、あのときの刹那的な永遠性を演出できなかった点が本作の最大の問題でしょう。

かおりとの出会いはまさに刹那的だけれども、それを演出できていない。だから僕はのれなかったなあ。

46歳になったときにあんな感傷したくないよ。少しでも希望を見せてくれよ。なんかああいう作品が多くていかにも、もうこの国は終わりって感じやん。過去を振り返る、取り戻すってカルチャーでも政治でもそんな傾向でさ、やんなっちゃうよ。

大人は大人で希望を見せてくれよなって思います。

 

おわり

 

 

 

ps

過去を振り返るみたいなことでいうと好きな映画、詩があるので紹介しときます。

映画『草原の輝き』です。

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その中で出てくるワーズワースの詩を最後に、

 

『Splendor in the Grass (草原の輝き)』

Though nothing can bring back the hour of splendor in the grass, of glory in the flower,

we will grieve not.
Rather find strength in what remains behind.

 

もう取り戻すことはできない 草原が輝いていたあの頃を 花が満開だったあの頃を それでも嘆くのは止めよう むしろ力を見つけよう、存続するものの中に。

『花束みたいな恋をした』を見た。

先日、『花束みたいな恋をした』を見ました。

前情報一切なしで見たのですが、この映画がまあ、ツッコミたくなる内容だったのでブログに書きたいと思います。

 

⚠︎ネタバレあり、あくまで個人的な感想⚠︎

 

ではでは、

『花束みたいな恋をした』

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ざっくりあらすじ

趣味が合う大学生の男女が偶然に出会い、恋に落ち、のちに同棲するも、付き合う年数とともにお互いの感情や生活のすれ違いでぎくしゃくしてしまい、相手を思って別れる選択をするというお話し。

 

まあ、ざっくりあらすじだけ見ると典型的な恋愛物語やと思いますが、他の映画とちょっと違うのはお互いの趣味の話がよく出てくるんですよ。

本、映画やお笑い、漫画や個展などなど。

それが終始物語に散りばめられてるんですよ。

 

ただ、その散りばめられた趣味の話が見ていて引っかかるんですよ。

物語と趣味の話が乖離しててなんか浮いて見える。

2人の人生とリンクしてないといいますか、なぜか物語に連結されていないように感じるのです。

 

2人が好きなもの、具体的には序盤の方で2人が出会う前に2人ともが天竺鼠の単独ライブを逃してしまうという出来事があります。

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ここで天竺鼠をだしてくるあたり、狙ってんなあ!!

 

たぶんね、これがミキとか和牛とかやと素通りしてしまうんですよ。

物語に直接関係なくても別にありがちな話やと消化できるのでいいですよ、しかしね、ここであえて、あえて天竺鼠という固有名詞を出してくるあたり、ちょっとまったー!!!

 

狙ってるよね。

 

まあこのあたりはいいんですよ、ええ、ええ、

 

と思えば、菅田将暉の部屋にAKIRAの漫画を置いてるのが露骨に映されます。

ピーキーすぎる!!

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はあ、ある層を狙ってるよな。

確実に。

 

こんな感じで、ことあるごとに互いの好きなものが強調されて物語は進むのですが、なにか引っかかるんですよ。

これは製作側の意図でしょう。

ある層がひっかかる固有名詞を散りばめて、いわば物語の狭間にフックを仕掛けるんですね。

釣りですよ。

そこでね、

「僕も、私も〇〇が好き!菅田将暉有村架純に共感できる!エモ!」

となれば完全に乗っかれると思います。

この映画に。

 

でも、僕は見てて逆にその散りばめられた固有名詞が異常に引っかかるんですよ。

花束みたいな恋をしたに出てくる固有名詞、それはね、僕が魚やとしたら釣り針につけられたエサを目の前にしてる感じなんですよ!釣り針やん、引っかかるかー!てなるんです。

 

あまり、その固有名詞が物語に直接関係してくるのかといえばそうでもないし、入れ替え可能な感じがするんですよ。

なぜそう思ってしまうのか?

 

他の作品と比べるのは申し訳ないですが、『モテキ』なんかはモロに固有名詞という釣り針だらけの映画ですけど、映画に出てくる固有名詞が物語と、かけ離れてなくて、違和感は感じないんです。

登場人物の人生と趣味がリンクしていてとても良いんですよ。きちんと趣味が登場人物の性格やしぐさ、人生観にリンクしている。

他方、花束〜を見ていて固有名詞に感じる違和感、それは物語と固有名詞の距離がすごくあると思うんです。

 

ちょいちょい固有名詞が出てくるだけで、根っこの物語とはあまり関係がない。

たとえば、「大学生の頃は〇〇というバンドが好きやったけれども、社会人になって〇〇とは対極の⬜︎⬜︎の魅力もわかるようになった、」とか、「失恋を経験して〇〇の音楽が余計に響く」とか、そういう人生と趣味の繋がりの描写がとにかくないんですよ。

それも、人生と趣味について刺さるセリフを後半に菅田将暉が言うのに、セリフだけで特に文化・芸術について人生におよぼす影響を劇中、描いていない。

 

だからこそ、物語の後半に菅田将暉が好きなものが吸収できなくなってパズドラしかできなくなったていうのが強調されてるとも、思いますが、それだけじゃ足りないような...

そのあとで別の好きなものができたり、以前に好きなものをより好きになったり、そういうのがないのですよ。

 

だから引っかかる。

 

とにかく固有名詞のあとのせ感が凄くて、趣味と人生について描いて欲しかった。

特徴的な固有名詞の数々が単なる観客を引き寄せるためのパンダみたいになってて冷めちゃうわけですよ。

 

せっかくの趣味が人生の物語に生かされてないのがすごく引っかかりました。

固有名詞をわざわざ散りばめられてるわりになにも影響与えないんかい!て。

 

そのようなね、描写があるわりには物語に生かされてないことが結構あるんですよ、

最初に出てくる2人の両親の存在、途中からまったく出てこないですよね、最初に出てくる菅田将暉の大学の同級生の女性(たぶん菅田将暉が好きな人)、まったく出てこないですよね、中盤に出てくるオダギリジョー、まったく2人の人生に影響与えないですよね、けっこうな役者さん使ってるがゆえに気になりますが、シーンを切っちゃっても物語になんら影響無いと思います。

 

そういう物語に直接影響を与えてこない、いや、もしかしたら影響を与えてるのかもしれないけれども、影響を与えているようには見えない人やモノがありすぎるんですよ、この映画。

だから余計な人やモノが多すぎて間延びした感じがしてしまう。

2人の恋愛感情や好きなものに対する姿勢をもっともっと重点的に描けばいいのに、たまに入るそのあと影響を与えない人やシーンの数々、、、

 

なので2人の感情にのっかれないですし、見ていてもこの映画は果たして見ている側になにを伝えたいのかわからなくなる。

 

この映画はなにを伝えたいのや???

 

途中からはずっと考えてました。

そして終わりそうで終わらない2人の関係は同作品そのものに影響を与えます。

 

終わりそうで終わらんなあこの映画!!!

 

実際、そう思いましたもんね。

2人の関係が悪い意味で作品自体に投影させちゃっている。

結局なにがしたかったのか、なんだったのか。

この映画と見ている側の関係と、映画の中の2人の関係が同じようになっちゃうんです。

 

結局なに!

 

それと、ちょくちょく引っかかるのが2人の生活面。

有村架純がバイト終わりに菅田将暉とコーヒー飲んで家まで帰るのですが、途中から生活に厳しくなったからゆーてコンビニのコーヒーにするんですよ。

 

そらそやろ!!!!

最初からコンビニのコーヒーでよろしわ!

十分ですわ!コンビニのコーヒーでも!

 

あとは夜な夜な飲みにいくの、

多すぎるやろ!パーティーみたいなんにそんなに参加する!?!?

そういうの嫌いと見せかけて自分もそういうサークルに入ってますやん!

カラオケには見えないカラオケ屋さんが嫌いゆーて、自分行ってますやん!!

東京ってそんなにパーティーするの?

 

あとは最後の最後で映画館の座席から転びそうになったんですが、お互い同棲解消して2人のものを分け合うシーンね。

2人がジャンケンするんですよ、

2人の近くには積み上げられた漫画や本。

ここで見ている側は思うわけです。

 

あー、漫画や本を分け合うジャンケンね〜

 

でもね、それ漫画や本を分け合うジャンケンじゃなかったんです。

2人が飼ってた猫、どっちが引き取るかのジャンケンやったんですよ、

 

いや、理性〜〜!

倫理〜!

猫の引き取り手をジャンケンで決めるな〜!

 

猫の引き取り手をジャンケンで決める2人ですよ、ありゃもしかしたら負けた方が引き取るルールやったら末恐ろしいですね。

 

まあまあそんな感じで2人の生活面でも違和感を感じるシーンがよくあったんですよ。

 

僕が『花束みたいな恋をした』を見て感じた大きな違和感。

一つは物語に散りばめられた固有名詞が入れ替え可能に感じて、2人の人生に生かされていない。

せっかくの特徴的な趣味がその後の2人の人生に影響を与えたシーンがない、それとそれらを含む2人の物語に影響を与えない登場人物(特にオダギリジョー!)

あと、2人の生活面での違和感。

エモーショナルな恋物語を狙っていたのか、なんなのか、ある層を狙ってるわりにはハマってこない感じ。

2人の関係性がそのまま作品自体に投影されちゃってる、はあ、なんだかツッコミたくなる映画でしたね。

 

でも、見て後悔ってのはまったく思いませんでした。

なんだかんだいっても2人の演技は良いし、特に菅田将暉が精神的に参ってるときの表情とか抜群に上手かったですね。

ありゃ凄いですよ。

いや〜なセリフをいうときの表情とかも最高でした。

ちょっと触れましたが、パズドラのくだりらへんの菅田将暉の演技は凄かったです。

 

おもっきりネタバレしましたが、まだ見ていない方は公開中(2021年2月23日時点)なので見ていただきたい!ほんとに!

 

以上、最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

自称バームクーヘン

『mid90s』誰にでもある"あの頃"

こんばんは自称バームクーヘンです。

今回は映画『mid90s』について書きます。

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さて、この映画、製作会社はA24
最近では『エクス・マキナ』、『room』、『パーティーで女の子に話しかけるには』、『ミッドサマー』などを製作したスタジオです。

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そんなA24がアメリカで2018年に公開したのが『mid90s』

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本作は2年越しの日本での公開なんですねえ。
監督はジョナ・ヒルさん、監督としては『mid90s』が処女作でございます。
主人公は『聖なる鹿殺し』に子役で出演しているサニー・スリッチ。
スケートボーダ―兼子役みたいです。めちゃめちゃいい子役やと思いましたですね。
あのルックスでスケートボーダーって!かっこいい。。

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で、その主人公の兄貴役のルーカス・ヘッジズさんは『スリービルボード』『ある少年の告白』『WAVES』など複数の作品に出演している役者さんです。

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さてさて、

『mid90s』ざっくりあらすじ※ネタバレなし※

1990年代ロサンゼルスが舞台の青春映画。
13歳の主人公の思春期の葛藤、親との関係・お兄ちゃんとの関係、友人との関係を描いた物語。
そんなフラストレーションが爆裂する時期に自分の好きなもの(スケートボード)に、主体的に関わっていく姿も描いております。

 

ではここから感想ですが、あまりネタバレうんぬんの映画ではないと思いますのでマジでネタバレしたくない方以外は見ていない人にもオススメしたいため、全部は言わない程度に書きたいと思います。

 

 

それでは、

~誰しもが抱える”あの頃”~

この映画はすごく音楽とマッチしていて、1990年代ド真ん中の人はかなり惹かれると思います。
だけれども、ど真ん中じゃなくてもなぜかこの映画に懐かしさを感じてしまう。
それは何故か。おそらくそれは10代の頃の苦い思い出や淡い思い出、楽しかった思い出がふんだんに描かれるからだと思います。しかもそれがBGMと共に描かれる。
兄弟喧嘩、自我との葛藤、好きなものができたとき、恋愛、友人、家族、いずれかには誰しも何かしら良くも悪くも10代に思い入れがあると思います。
『mid90s』はそのあたりを描いているんですよ。

郷愁が感じれるというか、エモーショナルな雰囲気がずっと漂っている映画なんです。
個人的に一番惹かれたシーンは主人公が(おそらく)初めてスケートボード屋さんに入るところでした。

あるーーーーー!!好きなものに飛び込む瞬間!あるーー!

少し緊張しながらスケートボード屋さんに入るんですよ、一人で。
これ、例えば初めて映画館に一人で行くとき、ライブに行くとき、初めてCD買ったとき、誰しも1回は好きなものに飛び込む経験はあるかと思います。あのシーン好きやわあ。

主人公はそこ(スケートボード屋さん)で年齢も人種もバラバラだけれども好きなもので繋がったコミュニティと出会い、交じります。

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なにがあっても集まれるコミュニティがあるのは良いですよね。
この映画が惹かれる要因の一つにコミュニティの存在があると思います。

 

 

~共同体の存在~

好きなもので繋がっている『mid90s』の少年たち。
劇中、いくつかのシーンで大きな公園でたむろしたり、スケートボードをするのですが、主人公がいるコミュニティとは別に、いくつも同じような少年少女の姿が写ります。
それぞれのコミュニティがあるとそこで分かります。
主人公らはスケートボードで繋がり、その他の少年少女らは劇中では描かれておりませんが、例えば音楽で繋がったり、別の趣味で繋がったりしているでしょう。
そんな10代が集まる居場所が1990年代にはありました。

思えばそういうコミュニティがたくさん集まり、大きなコミュニティを形成できる居場所ってどんどん減ってきているように感じます。


てんでばらばらに見えても実は大きな共同体として機能していた大きな公園。
互いに親や学校、兄弟の不満をさらけだし、好きのもので昇華していく。そんな姿が描かれます。
映画を見ている側は、最近では失われてきた大きな共同体を見て、惹かれるのかもしれません。

登場人物それぞれ家庭の事情や人種が故の差別を抱え、生きていく。
バラバラの彼らがスケートボードという”好きなもの”を通して繋がるわけですねえ。
おもしろい。
さらにそこでぶつかって新たな関係ができたりする。


おもしろいのは彼らがスケートボードで建物と建物の間を飛べるかどうかというキケンな遊びをするシーンがあるのですが、あれはフラストレーションをこのまま溜めるか、一線を越えて昇華するかという人生のターニングポイントになっていると思います。

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本当に飛び越えられるかではなく、飛び込むかそのままでいるかなんですよ。
あのシーンから主人公は次第にヒトやモノの見方が変わっていきます。
お兄ちゃんに対しても、母親に対しても、好きなものに対しても。

そして簡単に言うと主人公はグレていくのですが、完全に家族と縁を切るわけでもない。
母親やお兄ちゃんに反抗しても、スケートボードで発散できる。
発散できる好きものを獲得できたわけですね、建物の間を飛び越えるチャレンジをしてから。

たまーに描かれるのですが主人公の自傷行為はそれまでの自分、以前の自分をぶっ壊している描写だと思いました。
生まれ変わりというか、『ファイトクラブ』の主人公が自分で自分を殴ったり、銃で自分を撃ったりするのと近しいものがあると感じました。
過去からの脱却という、直接的な表現なんだと思います。

 

そして、例え以前と違っても、家族というコミュニティも主人公にはあるわけでそのコミュニティも主人公にとっては必要なわけですよ。
反抗はしますが、家族も大事なわけです。
だから、お兄ちゃんが主人公のスケートボード仲間に出会ったときに苦い顔(来るなよ)ていうようなある種の防御反応、お兄ちゃんはあのお兄ちゃんのままでいてほしいというような顔をするんです。
家族が友達にカラまれてるのなんて誰だってみたくないですからね。

 

お家でけんかしても、次のシーンでは2人はゲームをしている。

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このシーンもすげえ好きでした。


これ、どっちかが「一緒にしよう」って言ったかもしくは毎日の恒例やから一緒にしているわけですからね。
おもしろい、良い関係です。

 

主人公と友達との関係も月日が経つにつれて変わっていきます。
友達というか兄さん的存在の2人がだんだんと対極な関係になっていって主人公はどっちにも惹かれるし、どっちにも着いていこうとするところとか。。

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そういうの、あるわ~~~~~。

 

夕日のシーンも詩情にあふれていた。


この映画は多くを語らないからこそ存分に想像させてくれます。
非常におもしろい。


ラスト付近も良かったですね。

10代の少年少女があるきっかけから落ちていく姿を見せる映画はよくありますが、別にそうもならない。
この映画を見るまでは、そういう映画(あるきっかけで少年少女が落ちていく物語)はわりと現実的でおもしろいと思ってましたが、『mid90s』を見てからはそういう映画(落ちてく映画)も好きですよ、好きですけども、世界観として、現実って自分が思っているより純粋やし、自分が気付かないだけで日常は詩情やエモーショナルがあふれているんじゃね?て思います。

 

心が浄化される映画ですよ『mid90s』は。


まだ見ていない方は是非見て頂きたい作品でした。

以上、最後まで読んでいただきありがとうございました。

 


ps.

ちなみに僕はこの映画を見てからというものの、スケートボードがしたくてたまらない!
だけど、映画の登場人物みたいにかっこよく滑れるのか?

いや、そういう気持ちを乗り越えておれも飛び越えたい!
『mid90s』の登場人物みたいに。。

スケボーかっこええわあ。


あと劇中歌良かったわあ。

特にpixiesのWave Of Mutilationね。

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おわり

直進車は赤やけど右折できるときのやつ🚥

こんばんは自称バームクーヘンです。


最近思うんですが、日常生活で気付かないけれどめちゃくちゃありがたいものってあると思うんですよ。


例えばベルト。

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ベルトって当たり前ですけどめっちゃ便利です。
ベルトない世界を想像してみてください。
すぐズボン落ちますよ。

それとちょっと体型変わったらズボン変えないとだめですからね。

 

履いて当たり前のズボン。
それを支えているのは一体誰なのか?
それはベルトなんですよ。
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僕は毎回、ベルトするときに感謝します。「ああ、ズボンを支えてくれてありがとう」って。


むしろズボンはもっと頑張れよと、ベルトに頼りすぎちゃうかって思うんです。
下半身衣服の主人公はズボンみたいになってますけど、事実上下半身衣服のフィクサーはベルトですからね。
ズボンはがんばれ!(紐やゴムでベルトなしでも大丈夫なズボンは除く)

 

 

それとまあ、これはねもしかしたら賛否あると思いますが感謝したい当たり前のもの。


それは道路の右折専用、左折専用レーンです。

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こいつはね、役立つときはすごい。

けども「えええ!!??普通に走ってたけどここ、右折専用なんかい!!」てなったら終わりです。

直進したくても車が多けりゃ従うしかないですから。
『IT/直進したいのに右折・左折専用レーンに入ってもうたら終わり』ですよ。

 

賛否あるけどもこいつがいることでスムーズに曲がれる。


ありがたいですねえ。

まあほんまにややこしい道路もあるんでそれは注意しときましょ。
甘えれはしないけど感謝はしとかなやられます。危ない。

 

 

そして、僕が思う当たり前やけど感謝しないといけないやつランキング1位は、、

『直進は赤やけど右折もしくは左折はしても大丈夫なときの信号機のやつ』です。

 

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これは先ほどの右折・左折専用レーンとも少し変わりますが、そいつらよりも裏切られることが少ない!
右折・左折専用レーンはたまに裏切りますからね。直進したいのに、
「右折専用レーンなんかい!」ってことがありますから。


それに比べて直進は赤やけど右折もしくは左折はしても大丈夫なときの信号機のやつは優しい優しい。
あの信号機からは「俺に任せろ、ちょっとでも時間稼ぐから今のうちに行くんや、曲がるんや」という優しさを感じます。

自分が右折するとき、めっちゃありがとうの気分。


そのとき、「ありがとう~~~泣」と思いながら僕は曲がります。
あの状態の信号機は擬人化したら絶対かっこいいわあ。
己を犠牲にして、いうならばもう体の状態としては赤信号なわけですよ、限界なのです。

それなのに、それなのに最後の力を振り絞って「おまえは曲がれ!」と、みんなを曲がらせてくれるんです。

 

前回の記事で僕は信号機が嫌いと書きましたがあの状態の信号機は好きと訂正させて頂きます。


僕は感謝します。
当たり前やけどありがとうと。

 

以上、

最後まで読んで頂きありがとうございました。