こんばんは自称バームクーヘンです。
この前ですね、僕は『モテキ』や『奥田民生になりたいボーイとすべて狂わせるガール』などを撮った大根仁監督の新作、『sunny 強い気持ち・強い愛』を見ました。
この作品は2011年に韓国で大ヒットした『サニー 永遠の仲間たち』のリメイク、日本版となります。
これから書く内容はあくまで個人的な感想なのであしからず...
あとネタバレはします。
まず、簡単なあらすじは
主人公たちが親友の病気をきっかけにあの頃と今を当時のカルチャーを通して振り返り、自分たちの存在意義、いわば「私たちは仲間である」という意識を再認識、そして団結し各々がそれぞれの想いを連携させながら現在を乗り越えていく、
といったような内容です。
さて、僕自身『sunny 強い気持ち・強い愛』(以下、『sunny』と表記)を見て感じたのは第1に、日本版と韓国原作の『サニー 永遠の仲間たち』(以下、『サニー』と表記)の類似点と相違点に関してです。
『sunny 』は、「当時のカルチャーを通して現在と過去を対比する」という範疇では原作(サニー)を忠実に日本版に置き換えて演出していました。
これは『モテキ』でも感じたのですが、大根監督は音楽の使い方が上手いんですよね。ただ、その技ってのも意味があって成り立つのです。そういった意味で、今回の『sunny』は首をかしげることがありました。
映画の中の音楽というのは幾ら使い方が巧みでも、そこに意味がなければただの「当時の流行を取り敢えず入れました」みたいなことになる。
映画を見ていて音楽がかかり、たとえそれにノレたとしても、映画の物語性と完全にマッチしていないと映画と音楽がぶつ切りされた感覚になるのです。
洋画の『トップガン』は特にそうですね。『トップガン』は取り敢えず盛り上がれる曲を入れただけで、映画の物語性とマッチしていない。そこには意味がないんですよ。
シーンに合うかどうかではなく、取り敢えず盛り上がれる当時の音楽を入れる感じですね。
それに近い感覚を『sunny』を見て感じました。
たしかに音楽をかけるタイミングは上手いが、そこに意味はあるのか?
勿論、「当時のカルチャーを通して過去を振り返る」という点ではその演出は当時の音楽を流すことで演出されていますが、ここで感じた問題が1つありました。
『sunny 』は現在の物差しで過去のカルチャーを垂れ流しており、そこには「懐かしさ」のみで現在と過去を対比するにあたって過去は過去で切り離され、現在との繋がりが上手く機能していないように思いました。
それはなぜなら、現在の物差しで過去を見ているからであり、それ故に過去と現在がぶつ切りにされてしまいます。
そして、カルチャーはその時代の投影です。
そのため、当時のカルチャーがもたらした社会的要因や情勢、その時代に生きた人の心理は無視できません。
それがないと「懐かしさ」だけで終わってしまう。
最も、韓国の『サニー』は政治的情勢、国家の変化、若者のフラストレーションを当時を生きた女の子たちと、ポップカルチャーを通して巧妙に演出しています。
いや、そのような社会的要因(政治、国家の変化)故にポップカルチャーは生まれ、それを個人(女の子たち)が現在から振り返ることで全体の変化も見えてくるわけです。
いわば、個人的思い入れプラス、韓国という国の20、30年の変化という全体性も映画では演出している訳です。
カルチャーはその時代の投影です、そういった意味で演出上、社会的要因を見せることは不可欠であり、それを見せることで物語がもっと飛躍し、より一層意味をなし、「個人から全体性を見て、さらに全体性からもう一度個人を見る」という、大きな物語の流れができます。
では、大根仁監督の『sunny』をそれができていたのか?
僕が見た限りでは、カルチャーは映してもそのバックボーンは演出していないように思えました。だから、音楽やその他の演出、過去と現在が繰り返されるのみで、繋がりがなく、ぶつ切り感覚に思えた。
1990年代、日本は激動の時代でした。
バブル崩壊後のいわば社会的に病んだ状態、オカルトブーム、新興宗教ブーム、アニメならエヴァンゲリオンブーム、自然災害なら阪神淡路大震災、事件ならば地下鉄サリン、神戸連続児童殺傷事件、その他社会的現象として援助交際、ブルセラショップ、テレクラが流行しました。
ちなみに95年は援助交際がピークに達した年です。
同時期に日本のカルチャーは女子高生を中心に回っていました。
『sunny 』の舞台は阪神淡路大震災後なのでモロ、その時代なのですよ。だから、その時代を演出する上で、しかもその当時のカルチャーをふんだんに扱う上で、そのような社会的現象や当時の人の心理は無視できない。
カルチャーはその時代の投影です。
それが作品内ではワードやファッションのみだけ見せて、いとも簡単に消費されてしまう。そこにリアリズム、物語性は感じません。なぜなら前述のように、ただ挿入歌として、ただファッションとして、ただワードとして出てくるだけでいわば単なる記号化しているわけです。
記号の連続、ぶつ切り感覚はそれも原因かもしれません。
広瀬すずのお兄さんはエヴァンゲリオンを見て世界終末説を説いていましたが、当時は、「世界が本当に終わってしまうのでは?」という空気がありました。
だから音楽はポップで明るいものが流行った。
文化にはバックボーンがあり、バックボーンなしでは文化は生まれません。
映画ではただ単にシーンに合うかどうかよりも、盛り上がれる、いわば現在から見た過去の「懐かしさ」だけの物差しでバックボーンを語らず、ただ垂れ流していたように感じました。
それはどうなの?
過去と現在が繰り返される物語でその振り幅は大きくなればなるほど、盛り上がれるはずなのにどうもしつこく感じてしまう。その原因は現在から見た過去の「懐かしさ」のみの物差しで当時のカルチャーを垂れ流して過去を演出していたからでしょう。
俳優さんの演技は良かったですが、衣装も景色も現代パートと同じ綺麗さ、そこにリアリズムがなく、どうも乗れない。
混沌とした90年代だから、女子高生のキラキラした要素が肥大化しカルチャーに影響を与えたわけで、混沌とした部分なしにそれは演出できないのではないでしょうか。
そして、1番の問題点は現在からの「懐かしさ」のみの物差しで過去を振り返るために、当時、女子高生たちが楽しんだ事実を現代まで引き伸ばし、刹那的な永遠性を演出できなかった点でしょう。
過去と現在がぶつ切りにされ、過去は過去で閉じてしまう。
脚本上ではそうなってはいないかもしれませんが、どうも、過去のキラキラした「私たち」から現在の「私たち」を上手く繋げれていないように感じ、さらに、前述した「カルチャーのバックボーンの不在」が存在するため、個人ベースから全体性を見て全体性から個人ベースに落とし込むことにも失敗しているように感じました。物語の欠落。
カルチャーのバックボーンの不在、過去と現在のぶつ切り感覚、シーンに合うかどうかではなく垂れ流したBGM、綺麗すぎる過去パート。
以上が違和感を感じた点です。
それ故、物語性が希薄になり、人間ドラマとして満たされない感じを覚えました。
あと作品上、よく指摘される、「ラストのお金問題」では韓国版でもそうなのでそこは棚に上げます。。
まあ、韓国の場合は政治的背景もあり、全体性の流れも映画で加味しているため、ラストのお金問題はまだ納得ができるんですよ。
それほどまでに韓国は20年間で国の形態や国民の心理も変化したため、まだお金要素が入ってくるのも理解できます。
それと比べると日本版は異質なのかなあ。
さてこれまで書いてきたことを総括すると、『sunny 強い気持ち・強い愛』は「過去と現在をその時代のカルチャーを通して振り返る」という範疇では、韓国映画『サニー 永遠の仲間たち』を完璧になぞっていました。しかしながら、韓国版では韓国の家族社会から近代化へ飛躍した明るさと影も巧妙にカメラで収めていたのに対し、大根監督版ではあくまでポップカルチャーに重点を置いていた。
ただ、そこで疑問に思うのは、その時代のカルチャーはその時代の投影している面もあり、そう言った意味では、90年代の日本のバブル崩壊からの混沌が生み出したポップの裏の暗部は無視できないと思う。
いや、暗部があるからポップであるわけでそこは重要なわけですよ。
援交、テレクラ、ダイヤルQ2、ブルセラ、エヴァ、阪神淡路大震災、新興宗教。間違いなく、90年代の日本はある意味で病んでいた、が故に躁状態でもあった。
その社会の中で女子高生の一部(登場人物)だけは地に足をついて「なんでもいいじゃん」みたいな強さがあったと思う。
それを見せるにはバックボーン(個々人の物語や社会全体の雰囲気)も映して欲しかった。
どうも、過去パートは飾り付けたような感じでリアルさにかけていました。
シリアスと愉快さが混在する今作ならもっとそれの振り幅を大きくする(ぶつ切りにするという意味ではなく繋がりを持たせながら振り子のように両者の幅を広げる感じ)ことで、映画として物語として普遍的なものになったと思います。
そこがのれなかった要素ですかね。
あくまで個人的な感想なのでこれを読んで疑問に思うことばかりでも、むかついても全くおかしくありません!
僕はのれなかったなあ。
おわり