ぼんくら解体新書

俺は絶対サブカル男子ではないっ!

大根仁監督『sunny 強い気持ち・強い愛』を見た。

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こんばんは自称バームクーヘンです。

この前ですね、僕は『モテキ』や『奥田民生になりたいボーイとすべて狂わせるガール』などを撮った大根仁監督の新作、『sunny 強い気持ち・強い愛』を見ました。

この作品は2011年に韓国で大ヒットした『サニー 永遠の仲間たち』のリメイク、日本版となります。

 

これから書く内容はあくまで個人的な感想なのであしからず...

あとネタバレはします。

 

まず、簡単なあらすじは

 

主人公たちが親友の病気をきっかけにあの頃と今を当時のカルチャーを通して振り返り、自分たちの存在意義、いわば「私たちは仲間である」という意識を再認識、そして団結し各々がそれぞれの想いを連携させながら現在を乗り越えていく、

といったような内容です。

 

さて、僕自身『sunny 強い気持ち・強い愛』(以下、『sunny』と表記)を見て感じたのは第1に、日本版と韓国原作の『サニー 永遠の仲間たち』(以下、『サニー』と表記)の類似点と相違点に関してです。

『sunny 』は、「当時のカルチャーを通して現在と過去を対比する」という範疇では原作(サニー)を忠実に日本版に置き換えて演出していました。

これは『モテキ』でも感じたのですが、大根監督は音楽の使い方が上手いんですよね。ただ、その技ってのも意味があって成り立つのです。そういった意味で、今回の『sunny』は首をかしげることがありました。

映画の中の音楽というのは幾ら使い方が巧みでも、そこに意味がなければただの「当時の流行を取り敢えず入れました」みたいなことになる。

映画を見ていて音楽がかかり、たとえそれにノレたとしても、映画の物語性と完全にマッチしていないと映画と音楽がぶつ切りされた感覚になるのです。

洋画の『トップガン』は特にそうですね。『トップガン』は取り敢えず盛り上がれる曲を入れただけで、映画の物語性とマッチしていない。そこには意味がないんですよ。

シーンに合うかどうかではなく、取り敢えず盛り上がれる当時の音楽を入れる感じですね。

それに近い感覚を『sunny』を見て感じました。

 

たしかに音楽をかけるタイミングは上手いが、そこに意味はあるのか?

勿論、「当時のカルチャーを通して過去を振り返る」という点ではその演出は当時の音楽を流すことで演出されていますが、ここで感じた問題が1つありました。

『sunny 』は現在の物差しで過去のカルチャーを垂れ流しており、そこには「懐かしさ」のみで現在と過去を対比するにあたって過去は過去で切り離され、現在との繋がりが上手く機能していないように思いました。

それはなぜなら、現在の物差しで過去を見ているからであり、それ故に過去と現在がぶつ切りにされてしまいます。

 

そして、カルチャーはその時代の投影です。

そのため、当時のカルチャーがもたらした社会的要因や情勢、その時代に生きた人の心理は無視できません。

それがないと「懐かしさ」だけで終わってしまう。

 

最も、韓国の『サニー』は政治的情勢、国家の変化、若者のフラストレーションを当時を生きた女の子たちと、ポップカルチャーを通して巧妙に演出しています。

いや、そのような社会的要因(政治、国家の変化)故にポップカルチャーは生まれ、それを個人(女の子たち)が現在から振り返ることで全体の変化も見えてくるわけです。

いわば、個人的思い入れプラス、韓国という国の20、30年の変化という全体性も映画では演出している訳です。

カルチャーはその時代の投影です、そういった意味で演出上、社会的要因を見せることは不可欠であり、それを見せることで物語がもっと飛躍し、より一層意味をなし、「個人から全体性を見て、さらに全体性からもう一度個人を見る」という、大きな物語の流れができます。

 

では、大根仁監督の『sunny』をそれができていたのか?

僕が見た限りでは、カルチャーは映してもそのバックボーンは演出していないように思えました。だから、音楽やその他の演出、過去と現在が繰り返されるのみで、繋がりがなく、ぶつ切り感覚に思えた。

 

1990年代、日本は激動の時代でした。

バブル崩壊後のいわば社会的に病んだ状態、オカルトブーム、新興宗教ブーム、アニメならエヴァンゲリオンブーム、自然災害なら阪神淡路大震災、事件ならば地下鉄サリン、神戸連続児童殺傷事件、その他社会的現象として援助交際ブルセラショップ、テレクラが流行しました。

ちなみに95年は援助交際がピークに達した年です。

 

同時期に日本のカルチャーは女子高生を中心に回っていました。

『sunny 』の舞台は阪神淡路大震災後なのでモロ、その時代なのですよ。だから、その時代を演出する上で、しかもその当時のカルチャーをふんだんに扱う上で、そのような社会的現象や当時の人の心理は無視できない。

カルチャーはその時代の投影です。

それが作品内ではワードやファッションのみだけ見せて、いとも簡単に消費されてしまう。そこにリアリズム、物語性は感じません。なぜなら前述のように、ただ挿入歌として、ただファッションとして、ただワードとして出てくるだけでいわば単なる記号化しているわけです。

記号の連続、ぶつ切り感覚はそれも原因かもしれません。

 

広瀬すずのお兄さんはエヴァンゲリオンを見て世界終末説を説いていましたが、当時は、「世界が本当に終わってしまうのでは?」という空気がありました。

だから音楽はポップで明るいものが流行った。

文化にはバックボーンがあり、バックボーンなしでは文化は生まれません。

 

映画ではただ単にシーンに合うかどうかよりも、盛り上がれる、いわば現在から見た過去の「懐かしさ」だけの物差しでバックボーンを語らず、ただ垂れ流していたように感じました。

それはどうなの?

 

過去と現在が繰り返される物語でその振り幅は大きくなればなるほど、盛り上がれるはずなのにどうもしつこく感じてしまう。その原因は現在から見た過去の「懐かしさ」のみの物差しで当時のカルチャーを垂れ流して過去を演出していたからでしょう。

俳優さんの演技は良かったですが、衣装も景色も現代パートと同じ綺麗さ、そこにリアリズムがなく、どうも乗れない。

混沌とした90年代だから、女子高生のキラキラした要素が肥大化しカルチャーに影響を与えたわけで、混沌とした部分なしにそれは演出できないのではないでしょうか。

そして、1番の問題点は現在からの「懐かしさ」のみの物差しで過去を振り返るために、当時、女子高生たちが楽しんだ事実を現代まで引き伸ばし、刹那的な永遠性を演出できなかった点でしょう。

過去と現在がぶつ切りにされ、過去は過去で閉じてしまう。

脚本上ではそうなってはいないかもしれませんが、どうも、過去のキラキラした「私たち」から現在の「私たち」を上手く繋げれていないように感じ、さらに、前述した「カルチャーのバックボーンの不在」が存在するため、個人ベースから全体性を見て全体性から個人ベースに落とし込むことにも失敗しているように感じました。物語の欠落。

 

カルチャーのバックボーンの不在、過去と現在のぶつ切り感覚、シーンに合うかどうかではなく垂れ流したBGM、綺麗すぎる過去パート。

 

以上が違和感を感じた点です。

 

 

それ故、物語性が希薄になり、人間ドラマとして満たされない感じを覚えました。

あと作品上、よく指摘される、「ラストのお金問題」では韓国版でもそうなのでそこは棚に上げます。。

まあ、韓国の場合は政治的背景もあり、全体性の流れも映画で加味しているため、ラストのお金問題はまだ納得ができるんですよ。

それほどまでに韓国は20年間で国の形態や国民の心理も変化したため、まだお金要素が入ってくるのも理解できます。

それと比べると日本版は異質なのかなあ。

 

 

さてこれまで書いてきたことを総括すると、『sunny 強い気持ち・強い愛』は「過去と現在をその時代のカルチャーを通して振り返る」という範疇では、韓国映画『サニー 永遠の仲間たち』を完璧になぞっていました。しかしながら、韓国版では韓国の家族社会から近代化へ飛躍した明るさと影も巧妙にカメラで収めていたのに対し、大根監督版ではあくまでポップカルチャーに重点を置いていた。

ただ、そこで疑問に思うのは、その時代のカルチャーはその時代の投影している面もあり、そう言った意味では、90年代の日本のバブル崩壊からの混沌が生み出したポップの裏の暗部は無視できないと思う。

いや、暗部があるからポップであるわけでそこは重要なわけですよ。

援交、テレクラ、ダイヤルQ2ブルセラエヴァ阪神淡路大震災新興宗教。間違いなく、90年代の日本はある意味で病んでいた、が故に躁状態でもあった。

その社会の中で女子高生の一部(登場人物)だけは地に足をついて「なんでもいいじゃん」みたいな強さがあったと思う。

それを見せるにはバックボーン(個々人の物語や社会全体の雰囲気)も映して欲しかった。

どうも、過去パートは飾り付けたような感じでリアルさにかけていました。

シリアスと愉快さが混在する今作ならもっとそれの振り幅を大きくする(ぶつ切りにするという意味ではなく繋がりを持たせながら振り子のように両者の幅を広げる感じ)ことで、映画として物語として普遍的なものになったと思います。

 

そこがのれなかった要素ですかね。

あくまで個人的な感想なのでこれを読んで疑問に思うことばかりでも、むかついても全くおかしくありません!

 

僕はのれなかったなあ。

 

おわり

銀杏BOYZ『僕たちは世界を変えることができない』

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こんばんは自称バームクーヘンです。

銀杏BOYZ アルバム『光のなかに立っていてね』については詳しく別の記事でも書きましたが、今回はそのアルバムの収録曲、『僕たちは世界を変えることができない』について書きたいと思います。

 

銀杏BOYZは明らかに『光のなかに立っていてね』以前、以後で作風が変化しました。

もっというと、『DOOR』『君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命』が初期、『光のなかに立っていてね』が中期、そして『エンジェルベイビー』から続く現在が後期と細分化できるかもしれません。

 

そして初期、中期、後期、と分けることでファンが感じる2014年ごろから最近までの銀杏BOYZについて、峯田和伸という男について疑問に思うことが少しわかる気がするかもしれません。

 

去年ごろから銀杏についての記事をいくつも書いてますが、その訳は銀杏BOYZを聴いて悩むのではなく、銀杏BOYZを聴いて考えれるようになりたい。悩むことと考えることは別ですから。好きなもので悩みたくはない、それが僕の銀杏BOYZを考察する動機だと思います。

 

  1. 僕と君の世界

さて、本題ですが初期の銀杏BOYZはいわゆる「僕の世界」イコール「君と僕の世界そのもの」としていました。つまり、もっと簡略化すれば「僕の世界は世界そのもの」というような感じです。

僕の存在と世界の存在が直結、イコールの関係にあるんですね。

セカイ系映画っていえばわかりやすいかもしれません。エヴァみたいな、主人公の内面と世界の存在概念が直結している感じです。

しかし、中期にて、『光の中にたっていてね』のアルバムから顕著にわかるように、峯田和伸は「僕と君の世界を変えるためには、自分が変わるしかない」という風に帰結しました。

それはある意味では正しかった。しかし、銀杏BOYZの過去からの流れからするとそこで矛盾が生まれました。

 

決して掴むことができない世界を目指して悶々としながら生きることに、初期銀杏は意味を見出し、作品に昇華していたわけですが、それは不幸のために生きているようなことと表裏一体な訳です。

おそらく、ファンの心理や声、メンバーの意見をダイレクトに受信していた峯田はそれからは脱却したかった。

 

そもそも、「僕の世界は世界そのもの」という考えは、他人の心を写して自分を見る過程をすっ飛ばすため、自分の世界に閉じこもったり、社会はクソやから自分も他人もみんなクソって潜在的に感じてしまうのです。

違う、そうではない。

それはそれで良いですが、どのみち社会はクソなんですよ。だから自分の日常を変えるしかないわけです。

 

だから『僕たちは世界を変えることができない』けど、日常に光を見出す作業が必要となってきます。

 

2. 日常と非日常

初期銀杏は非日常を求めていたけれど、非日常は日常ありきなわけで、自分の日常を許容するしかないと思います。

そのためには、「どのみち社会はクソだから如何に日常を密にするか、」それがキーワードになると思います。

 

ここで改めて『僕たちは世界を変えることができない』の歌詞を見てみましょう。

作詞 峯田和伸

作曲 峯田和伸 チン中村

 

ベイビー もう泣かないで
僕がそばにいるから
ベイビー まだ死なないで
僕は変わらないから
愛が邪魔してる
こんなもの 捨ててしまおう
愛しているのに
こんなにも そんなにも
きっと世界は君のもの
きっと世界は僕のもの
きっと忘れているだけ
もっと美しいこと
愛が邪魔してる
こんなもの 食べてしまおう
愛しているのに
こんなにも そんなにも
僕たちは世界を変えられない
僕たちは世界を変えられない
僕たちは世界を変えられない

 

 

一見、未だ「僕の世界は世界そのもの」という風な解釈もできますが、そうではなくそこから一周したというか、いうならば「(初期の頃に幻想していたような)愛を捨て、街に出よう」という風な解釈も可能だと感じます。

それがいわゆる、僕が思う、どうせ社会はクソなのだから日常を密にするしかないって解釈とリンクすると考えます。

以前、幻想していた愛が邪魔をしている、あの頃に抱いた世界が足枷になってしまっている。でも、世界は変わらない。

足枷になっている鉄球を外して、別世界を見つけよう。

その別世界こそが、今生きている日常なわけです。

 

つまり、初期と中期にて同じ日常に君と僕は立っていますが、同じ場所でも「僕たちは世界を変えることができない」と悟ることで、つまらないと思っていた日常が、結果的に違う意味合いになるのです。

中身が違うわけですよ。密にする事で一見同じようでもまるで違うものになるのです。

 

そしてどうすれば日常が密になるか、自分の日常を変えるには第1に、非日常的体験を日常に見出す、第2にそうするためにはやはり実りある対人関係構築だと思います。これの意味する対人関係とはコミュ力とかそういう話ではなく、「この人は凄い」と心から思える人間と接触し、深い関係を結ぶことが大事になると思う。こんな社会で少しでも感受性を豊かにして、実りある関係を結べば日常に光を見出すことができると思います。

 

 

きっと世界は君のもの
きっと世界は僕のもの
きっと忘れているだけ
もっと美しいこと
愛が邪魔してる

 

「僕の世界は世界そのもの」という考えであれば、「きっと世界は君のもの、僕のもの」とは歌わないでしょう。

世界と自分は直結していない、そう帰結し、今生きている日常こそが光っている。それを僕たちは忘れているだけ、そしてかつて幻想していた「僕と君の世界」という愛が邪魔しちゃっている、そう歌っているのでしょう。

 

鋭い人はもう、初期銀杏が自分の人生においてかなりこじらせの要因になっていることを自覚しているはず。

そして峯田自身もそう思っている。

だから、それをある意味で自虐的に『僕たちは世界を変えることができない』と歌に昇華した。

そういうことではないでしょうか。

 

3.矛盾

すると、銀杏BOYZ中期・後期と初期との間に矛盾が生じてしまうという必然性が生まれてくるわけです。

『僕たちは世界を変えることができない』が顕著に表す初期銀杏との変化は1つの選択肢としては正しかったかもしれないけれど、銀杏BOYZの過去からの流れから考えると矛盾がある。

銀杏というバンドの視点、ミクロ的に見れば「昔と違うくない?」てなるのは当たり前。

ただ、全体性を考えれば『光のなかに立っていてね』や後期(現在)の銀杏BOYZ峯田和伸の選択肢は正しかった。かもしれない。

 

後期と中期でも矛盾を感じるところもあり、なんせややこしい。銀杏BOYZめ!

しかも近頃の銀杏はライブで関係なしに昔の曲やりだしたりするからな〜〜〜〜

だからややこしいねんなあ。峯田よ。

 

あああ、世界が滅びてしまう。

おわり

 

風俗道中記 chapter4. 「池袋」編

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「僕は幸せに感じました、しかしそれは他人にとってはそうではないのかもしれない。でも、たしかに僕は幸せに感じました」

 

 

こんばんは自称バームクーヘンです。

 

今回は風俗の話「池袋編」4回目です。

 

風俗道中記 chapter4. 風俗万歳

 

ー前回までー

僕は池袋にある風俗に行き、風俗嬢のさえさんと出会います。そのとき、かなり癒されたのでブログに書き、さらにそのことを本人に伝えた上で、もう一度記事を書いて、最後にさえさんの写真とコメントを載せました。

 

そしてそれから60日後....

 

場所は東京都中野区、中野駅

 7月14日

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時間は15時を回った頃

僕はさえさんと中野駅で集合する約束をしていました。

 

風俗店で出会ったときは、部屋も薄暗い、あまり視界もよくない、そんな状況なので昼間に集合するのはだいぶと恥ずかしい。。

そして、さえさんがやってしました。

 

 

キャップを被ったさえさんがやってきました。

いや、めちゃめちゃ可愛い!!、!!!!

もう、可愛すぎて泣きそう。

可愛すぎるやろ!!!れれ!!!!!!!

 

なんなんだよ!俺は!

 

 

あああ、

そしてそんな''可愛さによる衝撃波''になんとか耐えながら、中野をぶらぶらと2人で歩きました。

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ちょっと待ってくれ、その話の前に、その前に、その前に。

 

7月7日

 

僕はさえさんと電話をしました。

そして僕は癒されました。

その電話にて、出勤前に中野で遊ぼうという話になったのです。 

7月の3連休に東京に行く予定があったので、そりゃ東京住んでた頃に行った風俗にまた行きたくなりますよね、

風俗店にお金を落としたくなりますよね。

風俗という形であれ、僕は癒されるので癒されたくなりますよね。それが要因でした。

 

再び。

 7月14日

集合し、2人で中野を歩きました。

さえさんはめちゃめちゃ可愛い。

ああ、なんて可愛いんだろう、こんな可愛い娘が果たしているのか?いや、いる。

そして俺の横を歩いている。その現実!!

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(本人です、身バレ防止のため、だいぶボカシてます)

 

可愛いって、容姿もですが、もうなんか内面的な可愛さも抜群に感じるんですよ。

そう感じながらふと、どっかの店のガラスに映った僕とさえさんを見て思いました。

さえさんは勿論、可愛い、

ただ、俺、俺の存在よ。大阪からのこのこやってきた俺。

 

例えるなら

美女と野獣

 

 

ちょうどさえさんは黄色のスカートを履いてて、僕は紺系の服を着ていました。

まあそれでもよろしい、「僕は癒されているんだ」と、そう感じながら中野のプラネタリウムに行きました。

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(昔ながらのレトロなプラネタリウムです。)

 

親子や子供たちがいっぱい、カップルも何組かいました。見かけ上、僕とさえさんは年齢2つしか変わらないので(おこがましいのは重々承知の上で)カップルに見えてもおかしくはない。

だか、しかし、六本木でも歌舞伎町でも大阪なら梅田や、なんばでも歳の差離れた男女(たぶんキャバクラのお姉さんとおっさんなんやろなてきな関係)て見るじゃないですか。

 

もうね、ぼく22歳ですけど形だけならその人らとおんなじことしてるんですよ。

2、30年後ならあり得た話をもう僕は体験したわけです。

先取り〜〜。

 

てか僕はプラネタリウムがめっちゃ好きなんですよ。めっちゃよくないですか?

全国のプラネタリウム巡りしたいんです。

7月末は火星が地球にめっちゃ近付いてくるよ。って話をプラネタリウムのアナウンスが聞こえたとき、さえさんは僕の手を握ってくれました。

 

うおおおお!!!!なんなんだよ!!!

癒し!この、癒し!!!

俺の存在を頭から輝かさせてくれ〜〜!

 

 

50分間プラネタリウム、僕は確かに幸せに感じました。しかし誰かにとっては「そんなわけない!」てなるかもしれない。

でも、俺は幸せに感じました。

プラネタリウム後は中野ブロードウェイに行き、お互いジャニヲタなのでジャニーズショップに行きました。

時間は17時をまわったところ。

 

さえさんの出勤予定は20時からだったので、もう少し中野を散策します。

 

19時半

 

手を繋ぎ、さえさんが勤務する風俗店に向かいます。

 

「いらっしゃいませ〜」

ボーイが言います。

 

 

 

60分コースで。」

僕が答えます。 

 

そしてすぐ案内されます。

さえさんが着替えるのを待ち、「60分後には終わってるねんもんな」、とか考えてたら悲しくなってくるのであまり考えないように、ひたすらに壁に貼ってる注意事項やドリンクメニューを読んでました。

 

「おまたせ〜」

さえさんが、やってきました。

2杯、薄めのウーロンハイをボーイさんに頼みました。

 

ところで以前に話したとき、さえさんは「私はMかもしれない」と、自身がちょっとマゾであることを告白してくれていました。

 

さえさんがそのとき、語ったのは店での話でした。

とある男性のお相手をさえさんがした時、衣装のネクタイで半同意の上で、腕を縛られ、口に少しだけ(第二関節くらい)指を入れられたそうです。

縛られ、指を入れられて何も言えない状態、ただ、とてもそれが気持ち良い。

そのとき、マゾな感情が生まれ、「あのときはとても気持ち良かった」とさえさんは語っていました。

 

「無理矢理は嫌だけど、そういうアブない行為には少し興味がある。」

 

ああ、そうか、自称M。

(そういえばそんなこと言っていたな〜)と、思い出したとき、僕の膝の上にさえさんが乗りました。

体勢的にはこんな感じです。

f:id:remon125cc:20180728123209j:image(著 山本直樹 『破戒』のコマから)

 

さえさんは勿論、風俗店で着るようの衣装に着替えていました。さえさんは僕が東京で初めて行った風俗の、はじめての嬢の方でした。

 

「口に指入れられるのが好き」

 

さえさんからいつか聞いたそんなセリフを思い出しました。

しばらく抱きしめて緊張をほぐし、キスをしました。べろちゅーも。

その10分後くらいですかね、

 

文章にするとなかなかハードなのでプレイ内容はここらへんにしといて、とにかくさえさんは可愛かったのです。そして僕は癒されました。

 

普段、日常を過ごしている、その人の非日常状態を見るのが僕は好きです。

何か解放したような感じでしょうか、扉といえば簡単ですが、その個人の性的な部分を少しでも除けたとき、僕は嬉しくなります。

 

僕は客で、相手は風俗嬢

僕はもしかしたらイタ客かもしれないし、クソ客かもしれない、自己満足野郎かもしれない。

だけど、僕は確かに風俗に行き、風俗嬢の方と話すことで幸せに感じるのです。

 

ところで、「風俗嬢はお金落としてくれることだけを求めている」という、意見がありますが、それは確かにそうだと思います。が、他方で金=モノと、自分が交換されることによって一部の風俗嬢の方が自分の価値、つまりモノと交換されることで潜在的に「自分は他人のモノではなく、自分である」ということの存在意義、価値観を下げてしまう、ということも知っておくべきです。

「お金だけが目的」と一括りにするのは、潜在的にそれだけじゃない人にとってはかなり、キツイ。根本は「お金」ですが、モノと交換される行為によって、自分の価値観を下げてしまう風俗嬢もいることが、何人かの風俗嬢の話でわかりました。

だから僕は風俗にできる限り、お金は落とし、できる限り風俗嬢が快く働けるように努めています。

 

風俗での出会いは偶然性、(パネル指名はちょっと違いますがたまたま出会うはずのなかった2人が風俗店で出会うカタチ)がありますが、僕はそれに加えて唯一性を求めます。

 これは風俗に限らず異性間における関係性において言えることでもあります、つまりは、偶然その人と出会ってしまっただけで、ほんとは相手は''誰でもいい''状態にならず、偶然偶然でそれは勿論、偶然。さらに、その人は唯一無二であるだと考えたいのです。

唯一無二、十人十色なんて言葉でそんなことはわかってても出会った相手が、違う相手でもいいような、''誰でもいい''状態にはなりたくありません。

何故なら''誰でもいい''なら、同じことをただただ繰り返してしまうからです。

相手との唯一性、それを大事にしたい。

 

風俗に関しての記事で何を言い出すねんって感じですがそう思うのです。

持続可能だが、''誰でもいい''状態に陥るよりも僕は持続可能であり、唯一性を相手と享受できている、そんな関係性が実りのある体験になると思います。

 

そういった意味で、確かに僕は幸せに感じたと心から思えるのです。

 

風俗店では80分間ほどさえさんと過ごしました、それでお別れです。

「また会お〜〜」と、手を振ってくれるさえさん。客と風俗嬢という関係性であることは重々承知の上で、それが仕事とわかった上で、僕はたしかに癒されたのです。

 

そして店を出て少し歩くと、同世代の若者たちが池袋西口の広場で楽しんでいるようでした。

僕は帰路、多少の虚無を感じましたがそんなことはどうでもいい。

その夜、僕は生きてて良かったと思えたのです。

 

以上!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ーいくつかの御礼ー

 

今回含め、いくつかの記事にて風俗嬢のさえさんには大変にお世話になりました。

ブログも予め読んで頂き、感想も聞けたので大変感謝します。また、話した内容、体験したこと等、濃密なものばかりでした。直接言ってはいますが、この場でも御礼申し上げたいと思います。

そしてこの記事を読んでくれた人にも感謝します、ありがとうございました。

透明なオナホで準優勝

こんばんは自称バームクーヘンです。

 

突然ですが僕はオナホールを買いました。

TENGAではございません。

TENGAはありがちなんですよ、僕の中で。

なんかね、とにかくありがちなんですよ。

オナホ買ういうてTENGA、いや、ありがちやわ〜〜〜〜....

って、のっけからなんて中身の無い話なんでしょうか。すみません。TENGA社すみません。

 

はい、僕はオナホールはこれまで3回買っています。

今回買ったのは4代目でございます。先代の方々はもう使用期限(衛生的に考えてどうしようもない。)がきたので成仏しました。

ずっと思ってるんですけど、オナホって大切なんですよ、僕にとって。

だから、捨てにくいんです。オナホ成仏寺なる存在を僕は寺や神社に期待しますよ。宗教学的に。オナホは性なるものですからね。

 

なにがやねん

 

 

さて、今回買ったオナホはこちらです。

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なんかね、透明なんですよ。しかもパッケージ見る限り、形がちんこなんですよ。

(あとパッケージのイラストの女性がロリっぽいのはTENGA以外のオナホールの箱に描いてるイラストってだいたいこんなんなんですよ、許して下さい、僕にはそのようなフェチはないです)

 

さ、

 

中身どんなんやねん、、amazonの箱から取り出したとき僕はそう思いました。

開けてみます。

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ローションとちんこみたいな形のオナホが入っていました。なるほど、無茶苦茶透明やな。

 

 

「下に紙敷いたら文字透けるんちゃうんか?」

 

 

僕はそう、思い、ちょうど近くにあった「りそなカードの申請書」みたいな用紙をオナホの下に置いてみました。

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うっすら見える〜〜〜

「お届け」、なんかのサイトにログインするときにてめえが人間か証明するための文字みたいになってますね。

そんなんええねん、

問題は形がちんこすぎるとこ!

 

先代、2代目、3代目とオナホ を見てきましたが1番ちんこの形をしている。

そして、クリア=透明。

 

まあまあ、透明であり、形はわかったところでそろそろ使いましょうか....

てか、りそなの用紙から剥がれないっ

Jesus Christ.

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なかなか剥がれない。。

どうしよう、紙が付着したままシコりたくない。。

ああ、

神はなぜ黙っているのか...

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4代目はのっけからわりかし粘着力がありました。

用紙が着かないよう、性なるものをゆっくり剥がし使用します。

まず、ローションを入れてiPhoneにて、DMM.で購入したAVを再生します。

 

でもね、これなかなか両手じゃ難しい作業なんですよ。

まず、ローション一回手についたらベトつくでしょ、それでiPhone触りたくないじゃないですか。オナニーも大変なんですよ。

 

無事にローションを入れましてとりあえず前戯(オナホに指を入れる)してみます。

僕はオナホでも前戯するのを心掛けてるんです。

んで、まあそれが終わりまして流れのまま挿入ですよ、

 

 

優しく挿れてみます。

繊細にね、そこは重要ですから。

挿れました。

 

...

気持ちよ!!!!、!いや、気持ち良!!!!

 

透明なんが気になるけど気持ちがよろしい

そのまま無我夢中でヌきましてね、

それで15分くらいですかね、ローションが布団にだいぶ付着してしまったのでそこらへんで終えました。

終わったあとはお風呂でオナホを洗います。

丁寧にー。

 

はあ、透明な4代目もなかなか素晴らしい。

形はちんこやけど。

 

どうもありがとうございました

 

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大森靖子 『超歌手』光りつづけるひと。

 

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こんばんは自称バームクーヘンです。 

大森靖子さんの著書『超歌手』が6月7日に刊行されました。今回は『超歌手』を読んだ感想を書きたいと思います。

 

前置きしますが、まだ最後まで読んだことない方はネタバレというか、どういうこと書いてるのか知ることになっちゃうかもしれないです。

あと、これは僕の個人的な感想なので読んで何を思ってもいいです。

ではでは...

 

 

(って、すべて書いてから思いましたが本の感想というより本を読んで、さらに僕がテーマ別に感じたことを書いてる、みたいになってます)

 

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まず、

「美しく生きろ、さもなければ美しい死などない」p10

 

 

大森さんはそう語りました。「美しく生きろ、さもなければ美しい死などない」

''美''とは何でしょうか。美しく生きることとは。

それはいうならば、他人のことをできる限り気にしないで自分をさらけ出す、むきだして生きることやと思います。

それは「他人に優しく接する」「徳を積む事を行う」など、形式の話ではないです。

そのような行動は結局、損得勘定になってしまう。

そうではなく、単に「自分を生きる」

大森靖子さんのいう''美''の概念は(僕の解釈では)形式の話ではなく、中身、つまり自分自身が生きていると感じれるよう生きれているか、そしてそれを自分なりに理解しているか、それが生としての''美''の概念だと思います。

 

''美''、次に''可愛い''とは何でしょうか。

 

「可愛い」が指す言葉の範囲は歴史的に広くなってきています。

極論、例えば町の普通のおじさんでも、なんてことない食べものでも「可愛い」と言われる時代です。

要は「自分に何もしてこなであろう対象のもの」はイコール、「可愛い」と解釈されます。

ただ、その中でもあえて女性に限定されて言われる「可愛い」について言うと、僕は何回かツイッターでも言うてますが、想像的なことやと思います。

 

可愛いの概念について、可愛いって思うのは視覚で認知できる要素よりも、もっと想像的な、例えばデートある日とか、普段のときに「今日はこんな服にしよう」とか「もっと可愛くなろう」みたいな、女性がそういうことを考えてる瞬間、それ自体が可愛いんです。

見た目、容姿に関してでも「可愛くなりたい」と考えること自体がもはや可愛いんです。

しかも女性はどんどん可愛くなっていきます。

可愛いは、無敵ですね。

「ダメダメなとこも可愛い」と大森さんは書いてましたね、ほんとその通りやと思います。

全てが可愛い。

 

 

続いて、

「現代人は流動的」

大森さんはそのようなことを書いていました。

それには激しく同意します。

バズれば何だっていい、お気に入りの数イコール承認の数。そんな時代だと僕も思います。

自分の好きなものについても流動的な時代。一瞬の消費だらけ。

例えば「好きなものに夢中になって何年も同じ曲が好きな人」と、「なんとなく好きで一瞬で好きを消費する人」では音楽が好きという形式は同じでも、時間の観念が人間に存在する以上、それによって得るものが全く違う訳です。

長い年月を経て得るものというのは必ず存在します。

好きが流動的だと、いわゆる

「なんでもいい→誰でもいい」となるんですよ。好きなものを好きな理由が「なんでもいいから」なんてなりたくないですよね。

 

そして、バズれば人気の証?

一瞬のお気に入り、それで例えば人気だと感じることはSNSというシステムの奴隷と化しているだけだと思います。

そんな一瞬の好きを繰り返すと、次第に「誰でもいい」という感情が強くなります。

「誰でもいい」なんて、言われたくないし言いたくないです。

 

その人はその人しか存在しない、一定の条件(容姿・学歴・職業)さえあれば何でもいいって、なんて哀しいんでしょうか。それは結局一瞬心の穴を埋めるだけで、ぐるぐるその「誰でもいい関係」を繰り返してしまうと思います。

 

その人、人間を愛せよと思います。

 


「若いうちにカネを払ってホンモノを見た方がいい」p13

生きたければホンモノを見よ、ホンモノとは何でしょう。先程述べた「誰でもいい」ものじゃない対象のものです。

大森さんは人間本来あるはずの''美''を信じているのだと思います。

それも、「誰でもいい関係」で繋がれた団体によってではなく、個人が個人として意識しながらも、意識的に共同体に属するという意味です。

 

そしてそれは

「全員同じになってはならない」p25

とリンクしていると思います。

フェス、ライブでの盛り上がり、おきまりのパターン、重要なのは形式ではないんですよ。

舞台の歌い手、ファンそれぞれ、個人がどうなのかが重要なのです。おきまりのパターンで一体化しても、それは錯覚。

ファンそれぞれと演者、個人が形式ではない、音楽の力によって「とにかく凄い」と感じれることが大事だと思いますね。

音楽でも映画でも「なんかわからんけどこれは凄い」と感じた人がいると思います。それがホンモノの芸術、作品だと思います。

 

大森靖子さんはこの著書でいくつかフェミニズムのこと、男女差別のことを述べています。

「夫婦同姓」についても少し語られますが、大森さんは言っちゃえば「夫婦同姓」制度を変えるのはめんどくさいんじゃない?としてましたが、それはあながち間違っていないと思います。

まず、夫婦同姓を法律で義務付けている国は世界的に見て日本のみです。

世界の国々では90年代以降、夫婦同姓を義務付けていた国は夫婦別姓か、選択的夫婦別姓(別姓でも同姓でもどっちでもいい制度)にシフトしています。

これだけでもどれだけ日本が遅れているかわかりますよね。

それをたまに「外は外、うちはうち」論で片付ける人がいますが、それは思考の放棄だと思いますね。

なぜ、世界の標準が夫婦別姓になっていることを考えないのでしょうか。

それに「法律的には嫁か夫、どちらかの氏にすればいいのだからそこに男女差別はない」と語るオトコもいます。

 

いや、現在結婚している夫婦の90%は夫の氏にしているわけです。法律の文言が全てじゃないんですよ、ほとんどの夫婦が男側の氏にしている。それが当然だという雰囲気もある。

まあ何故自然とそうなるかって、男女差別が存在している社会の歴史の上で、現行の社会が作られてきたので、知らぬうちにバランスが悪くなっていることに気付かないわけですよ。

さらに、2014年の「夫婦同姓制度が違憲かどうかの裁判」では結果、違憲ではないとされました。

最高裁判事の見解を見ましたが、「法律の文言的には男女どちらかと限られてないので違憲とはできない、国民の議論が先である」みたいな意見が多数ありました。

なんじゃそれ!!!!

 

日本は男女差別が残りまくっているし、無意識に差別している男が多く、世代間格差はありますが古い価値観を引きずり、それが通用すると思っているオトコもいます。

やんなっちゃうよ。

「夫がひたすらに働き、家事は嫁に任す」

これが経済を回す上で効率的だとされた歴史があったわけで、しかもそのときは男の方が有利な立場にあったので、つまり、俺たちは働くからめんどくさいことは任せるわ〜みたいな感じですよ。

 

そういう男の空気、空間で作られた部分はまだまだあります。そのフィールドをぶっ壊す。

音楽の場で、大森靖子さんはそういう男の空気感で作られてきたという前提を破壊するエネルギーがある歌手だと思います。いや、それが超歌手なわけですよ。

 

続いて、女芸人について語られます。

芸人の世界も男の空気で作られてきた歴史があります。松っちゃんも過去には芸人という囲いにおいて女性蔑視的な意見を述べてますが、あえて言いませんがその見解を、とある女性芸人によって、(しかも笑いによって)破壊されました。しかもダウンタウンが仕切るフィールドで。

ロックは破壊的創生だと思いますが、お笑いもそうです。ダウンタウンは間接的に過去のフィールドを破壊し、とある女性芸人と次なるお笑いのステージを組み立てた。

カッコイイ〜〜。

 

 

続いて、「メンヘラ」について語られます。

僕は「メンヘラ」とか「草食系男子」とか、人を一つのワードで括る言葉が大っ嫌いです。

その人を決めつけて、他者にレッテル貼りする行為は、その行為を行った人が自分はそうではないと認識したいがために行われることです。

 

人は一面だけなわけがない。

 

いろんな顔があり、姿があるのに「メンヘラ」とかいうクソみたいなワードでその人を囲うわけです。

なので誰かに「メンヘラ」とレッテル貼られても、自分でそう思ってても大丈夫ですよ。

 

大森さんの『超歌手』では大森さんの考えがむき出しで詰まりまくってるもので、尚且つ読みやすくてとても良かったです。

大森靖子さんは変化し続ける、それがわかりました。

 

この本『超歌手』は、この時代のある瞬間、個人に訪れるある出来事を大森靖子というひとりの人間を通して、鏡のように写してくれる本だと思いました。

大森さんが現代に生きるすべての人の日常のカケラを集めて、自分なりにデコレーションした感じですかね、それがかっこいいしかわいいんですよ。

 

ホンモノとは何か、消費社会について語られることがありましたが、そうすると「リアル」とは何でしょうか。

好きが消費され、好きな人も消費される。それの繰り返しに陥っている現代社会。

例えばインターネットは簡単に繋がれるが故に誰でもいい、何でもいい、一瞬のお気に入り、のループに人はハマってしまいます。

しかし、簡単に近づくことができるため、簡単に離れることもできる。関係性の希薄に繋がるわけです。

そうすると、もっと「誰でもいい感」が加速する。

そんなインターネットの要素を知った上で、リアルを生きる、日常を歩む、そのような行為は何もなかった、つまりインターネットを通してコミュニケーションした経験がない状態で日常を生きることとはわけが違う。

インターネットによる関係性の希薄や、「誰でもいい感」など、そんな虚無さを経験しているからこそ、同じ日常を歩む行為でも中身が違うわけです。意味合いが異なるわけですよ。

 

虚無さを知ったうえでそれを乗り越えれば一段高いステージに立てるわけです。

僕が読んだ限り、『超歌手』は現代の虚無さが溢れる日常を生きるしかない、それを経験するしかなかった若者たちに向けて、虚無さをもむきだして、日常を生きる。そのためのヒントが散りばめられた本だと思いました。

 

最後に、印象に残った大森さんの言葉をいくつか挙げます。

 

 

 

「壊れたっていい、壊れそうなのがずっと続くよりもマシだから」

 

 

 

 

「クズのまま光るんだよ」

 

 

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大森靖子さん、いいですねえ。

 

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おわり。

銀杏BOYZファンより愛をこめて

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こんばんは自称バームクーヘンです。

先日、銀杏BOYZ峯田和伸が「しゃべくり007」に出演しましたね。

そのとき僕はこんなツイートをしました。

 

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すると、僕の質問箱に銀杏BOYZや峯田に関する質問が山ほどきましてもうブログの記事にまとめようと思いました。

質問は質問箱にきた質問を抜粋し、内容を少し変えてはいますが、ニュアンスは同じです。

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まず、ゴイステ解散後、『DOOR』『君と僕の第三次世界大戦的恋愛革』を同時リリースしたときの銀杏BOYZの当時の熱量は凄いものでした。

それはYouTubeなどの映像で見てもすぐにわかります。

僕もその時期の銀杏を見てぞっこんしました。

 

質問、銀杏BOYZがカルト化したのは何故?

その理由の一つは、人はつまらない日常、特に社会はクソだと思っている人(僕も含めて)からすると、日常をぶっ壊してくれそうな人間に惹かれてしまいます。

「この人なら信頼できる」「この人はちがう」と。

そして、その人によって非日常体験をできる場合もあります。

例えばその人の影響をモロに受けたことで自分にもトンデモナイことが起きたり。そんなことが起きるとまあ、こじらせますが、逆にトンデモナイ世界を少しでも見せてくれると、今度は自分からそのトンデモナイ世界を目指そうとします。

日常と非日常ではなく、日常を捨てようとして非日常の方に走ってしまう感じです。

非日常があるのは日常がクソだから存在するのに、最初からトンデモナイ世界に入ろう、その住人に成り切ろうとするのです。

しかし残念ながら日常をぶっ壊してくれそうな人が現れても結果的にその人が自分を幸せにしてくれるかはわかりません。

 

峯田がどうかは人によりますが、痛快なものに惹かれるのは危険と隣り合わせなんですよ。

現に色んな人たちから「銀杏BOYZ好きにならなかったら今より幸せになれたかも」と何回も聞きました。

銀杏BOYZは特性として童貞や精神的童貞、さらにあの娘側にも普通に恋愛していいという権利を与えたと思いますが、それは同時にその人を「童貞」「あの娘」てワードの中に囲ってしまうことでもあると思うんですよ。

人は一面だけではありません。あるジャンルに囲われるとそのジャンルを言い訳にしたり、それに留まろうとしたり、逆にレッテルを貼られることでもっとこじらせてしまいます。

 

銀杏BOYZ峯田は「あなたも恋愛していい」と伝えることで、それまで自分がいた場所が闇だったことを知らせてきます。

そうするとそんなこと教えてくれたバンドを崇むしかなくなるじゃないですか。

 

 

質問、銀杏BOYZを聴いて幸せになれないのですか?

まず、銀杏の世界観において歌詞に出てくる童貞男が倒す相手がイケてるアイツである限り、童貞はいずれ、イケてるアイツになるしかないのです。これは音楽に限らず、物語上、その、物語の父(越えなければいけない存在)を越えないと主人公は最初からなんら変わらない者で、それは物語ではなくなってしまうというパラドックスがあるからです。

そして銀杏の世界観ではあの娘側は永遠に幻の中、光の中に閉じ込められるしかないんですよ。感の鋭い女性の銀杏BOYZ好きの人はそこの違和感に気付いているようです。

僕もこのブログの『エンジェルベイビーのMVについて』の記事で「銀杏の曲は女性側は昔から変化してない、峯田の思考が変化してるなら''あの娘''とされる女性側の変化や成長も見たい」みたいなニュアンスのこと書いたんですが、そのときは銀杏の2chスレで男の銀杏ファンにボロクソ叩かれました。

変わらないのはどっちなんですかね。

 

 質問、峯田という神は死んだのか?

峯田和伸は家庭や学校や社会の共同体から外れてしまった一部の若者たちにカルト的に崇拝される教祖であり、神でした。

(共同体意識の低下は時代背景も絡んできますが、長くなるので割愛します。)

 

そしておそらく、峯田は自身で若者たちの救世主やと思っていたはず。

やからファンの言葉をガラケーで受信し続けた。神は受動するという役目があるからです。そして峯田は自分の世界観に、少年少女を引き込む力がありました。

で、そのときは日常のクソ社会から救ってくれたが数年後何が起きたか?

 

僕も含めてこじらせる人たちが続出しました。まあそれも銀杏のせいには決してできないですが、その要因の一つでもあるくらい銀杏にはエネルギーがありました。

しかし、そんな姿(2005年あたり)の姿はもうありません。峯田はただただ「生きたい」って話であの頃の教祖の峯田が死んでから3日後に復活するわけではないです。

 

 

質問、銀杏BOYZは終わりましたか?

かつての銀杏BOYZはね、聴いてしまうとそれまで知らなかった価値観が芽生えてしまうというか、むしろ芽生えた方がその場所(クソな日常)から離れるためには良いんですけど、どうも一回入ってしまった銀杏の世界観から全く離れられない人の方が多い。バランスが悪いというか、良い距離感で聴けないバンドなんですよ。

そこが良さでもあるんですが、ヤバさでもあります。

それは何故なのか?銀杏はね、曲的に暗闇(クソ日常)の中に光を見出そうとするんですよ。

でも、実際光は別の場所、外側の世界にあると思います。裏表の関係じゃなくて、別々にあるというかね。やから手の届かないものに必死にしがみついてしまうことになる、可能性があるんですよ。

前も書きましたが、刹那的な恋愛に憧れてもそれは一瞬で終わって、現実に引き戻されるので不幸せしか待ってないんですよ。

今の銀杏BOYZは少しそこらへんが変わったと思います。

 

質問、銀杏がいうあの娘に私もなれますか?

みんなきっと誰かのあの娘やと思います。それはあなたもそう。もっと言うと、銀杏がいうようなあの娘にならなくても良いと思いますよ。

むしろ、『ぽあだむ』のMVに出てしまったが故に銀杏の世界観の''あの娘''から出れなくなったと言う人、何人か聞きました。

 

質問、あなたは銀杏嫌いな人の気持ちをわかりますか?

銀杏聴いてたらだんだん不幸せが自分を形成していってることに気付きます。だんだん。

そういうのが嫌いな人も当然いるでしょう。

でも、銀杏ファンはそれがやめれないという循環があるんです。

やからなんとかしたい。できるならば。

銀杏BOYZが描く、恋愛物語で2人が幸せになることはないですからね。

どっちかがボロボロになるまでがセットなんですよ。やから峯田に成り切ったり、自分の人生を銀杏の曲になぞるのは出来る限りやめた方が良いと思います。まあそんなんは勝手ですけど。

 

峯田和伸は過去、恋愛玄人のみの嗜好品として楽しまれてきた恋愛曲を童貞にも解放した革命者です。それは事実です。

さらに、オシャレ野郎に負け続けてきた男の歌作ってた峯田が今やすっかり権威側になった。

イケてるヤツという権威に対しての童貞、でもそれも権威化して、今や童貞という権威が出来ています。    

 

はあ。僕はとりあえず銀杏界隈に溢れるビジネス童貞を滅ぼしていきます。

誰かが不幸せになることに加担したくはないですね。

ミニミニ峯田はいっぱいいますよ。

 

あと峯田がテレビで照れたりする感じってもう、テレビ芸じゃないですか?あれ

 

 

おわり

 

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みんな安心したいよなあ。

 

うえののホテル つぎの夜へ

 

自称バームクーヘンです。

この物語は事実に基づいています。

場所:上野駅

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この日はある女性とお会いしました。

すずさんとは上野駅で会う2週間ほど前からお話ししていました。

すずさんは悩んでいました。

その悩みは

「あるバンドのマネージャーをしている男性が好きで、関係も持ったが、付き合ってはいない。しかし彼が他の女性と関係を持つのが不安になる」

という内容でした。

 

好きな人とセックスして何故、不幸せになるのか?

 

例えば夫じゃなくても彼氏じゃなくても、人を好きになるという感情は当然芽生えますし、僕は旦那がいても彼氏がいても違う誰かを好きになっても、好きになること自体は全く問題ないと思います。

それよりも問題なのは「相手の気持ちが自分の方向に向いてるか」です。

 

相手の気持ちが自分の方向に向いていないと苦しいにきまってるし、その状態でセックスすれば余計に不安になると思います。

''相手の気持ちが自分に向いている''っていうのは付き合っているとか形式の話ではなく、「理解しようとしてくれているか」ということです。

 

すずさんが彼を好きになったのは同じ音楽「電気グルーヴ」が好きでさらに自分と彼のプライベートな部分で共通性があり、魅力に感じたとのことでした。

でも実際はどうだったのか。

はっきり言うと、バンドマネージャーは人間として面白い部分もあるけど、普通の男でした。

 

彼とすずさんはたまたま好きなものが同じなだけで実はそんなに大したことじゃない。

好きなものが同じで、その好きなものを好きな人が彼以外に殆どなかった場合、「この人は特別だ」と勘違いしてしまいます。

全ては偶然。思い込みやと思います。

重要なのは「好きなものを好きな人」ではなく、「その人自身」

好きなものが同じやと相手のことを自分と似ていると容易に位置付け、理解したつもりになって相手本来の心を理解する作業を怠ってしまうと思います。特に男は。

 

その他にすずさんは「2人で夢見て何処かへいきたい」という願望を持っていました。

夢見ること、期待値を上げることはかなり重要です。

しかし、それは自分と相手の現状を知らないとヤバイことになると思います。何故か。

超現実を求めて2人で走り出しても、所詮ここは現実だからです。超現実を求めて掴んでも一瞬で消えてしまい、当然、現実に引き戻されてしまいます。そのため、彼に失望してしまう。

「2人で夢見て何処かへいきたい」ということは間違えれば「決して掴めないもの・掴んだら失望するもの、つまり不幸せの為に生きてる」ことに繋がるのです。

 

すずさんとはそのような内容のことを話しました。

 

そして相談を受けていて特にバンドマネージャーの男性に感じたことは「誰かの物語化」です。

自分の人生の「物語」なら全く問題ないですが、彼がしていたのはどう考えても憧れのバンドや、アーティスト、漫画の「誰かの物語化」でした。自分を特別視しちゃう感じです。

全く大したことのないこと、自分がサボっていること、ちゃんとしていないことに対して、いちいち意味を見出そうとしている、どっかの漫画や映画、曲で語られたようなドラマをなぞろうとしていました。主人公は既存のものじゃなく、あなたなのに。

彼の場合は電気グルーヴの世界観に成りきり、演じているような感じでした。それが例えば銀杏BOYZの峯田に成り切ったり大森靖子さんに成り切ることでも同じことが言えます。

憧れることは全く問題ないですが、憧れすぎて逆に「あなたもこうありなさい」と、強迫観念になる可能性があるということです。

さらに、「好きなものなのがこれなのであれをしなければ」など、誰かの物語によって自分の日常の選択の幅を狭められるのも問題だと思いました。

 

すずさんの話を聞く限り、彼には元から面白い部分もあり、それは僕もわかりました。

好きな部分があるのは事実で、嫌いな部分もあるのも事実です。

しかし、その上でその人は自分を愛してくれるのか、理解してくれるのかが重要じゃないでしょうか。

 

大事にしてくれる人を大事にすれば良いと思います。

そして、愛してくれない人を好きになるのは何故なのか。

こじらせてても大丈夫です。それはちょっとした相手と自分の気持ちのズレから生じるものです。

あと男はセックスできないから悩んで、逆に女性はセックスしてしまったから悩むように感じます。

 

恋愛は人格が変わるくらいエゲツないものですが、逆に良い方向に劇的に変わるのも恋愛によって、だと思います。

何回かやりとりをして、僕は実際にすずさんと飲むことになりました。

 

冒頭に戻りまして、場所は東京都上野駅

集合し、2人でアメヤ横丁に行きました。

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ある飲み屋にて、2時間後

 

わりと美味しい洒落た飲み屋でご飯を食べていました。

ふと、横を見ると知らないカップルが2人席でイチャついていました。

彼女の顔は火照り、彼氏も酔っているようです。

 

「う〜〜わ〜〜エロ〜〜」

 

それが僕の正直な感想でした。

薄暗いところでほろ酔いカップルがイチャついている。

どエロいです。

その15分後、カップルは店を出ていました。

 

いや、絶対ラブホいくやん!

 

それが僕の正直な感想でした。

 

すずさんも僕もお酒は入っていましたが、まあ普通に会話をしていました。

 

「そろそろ出る?」

 

すずさんが言います。

 

「上野、散歩しよう」

 

僕たちは外に出ました。

上野公園を歩きます。

 

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途中、ヤバイ映画館がありました。

公園を歩き、しばらくベンチに2人で座りました。

23時半頃。

なんか2人で公園にて変な空気になります。

 

(な、なんだこれは!)

 

近くにはビジネスホテルがいくつかありました。

 

しばらく公園のベンチで無言が続きました。

.....

 

すずさん「そういや誰かが言ってたよ。男女2人が一夜を共にしたら絶対にエロいことするって。あっ、その説が本当なのか確かめてみる?実験しよ、!」

 

そしてすずさんがビジネスホテルに電話をかけますが、23時半過ぎ、部屋は空いていません。

とりあえずコンビニでお茶買おうと歩きだします。

ローソンでお茶とお菓子を買いました。 

 

少し歩くと偶然、ホテルがありました。

ラブホテルでした。

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ここに入りました。

2人とも次の日が仕事やったので速攻で風呂に入り、24時半には布団に入っていました。

 

「男女2人で夜を過ごすと本当になにかが起こるのかな?」

すずさんがそう言いました。

 

たしかにいざ部屋暗くして同じベットで寝るとなるとなんかドキドキしてくるのも事実。

ラブホテルなので照明も明るいピンク、淡い青みたいな感じです。

おもちゃこそないものの、雰囲気は完全にその感じ。

 

俺はど、どうすりゃいい??

ラブホのトイレの鏡の前でそう思いました。

ベッドに戻ります。

 

そのとき、時間は夜中の1時過ぎでした。

 

 

そして寝たのは3時ごろでした。

 

 

 

 

そして次の日、6時半ごろにラブホを出ます。

朝方の上野。

「今日はありがとう、いろんな話も聞いてもらったし良い経験できた!」

すずさんはそう言い、大きな交差点で僕とすずさんはお別れしました。

 

 

[早朝の上野です。]
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*この記事は当事者である、すずさんの許可を取っております。というか、僕がブログやっていることを知っていたので、この出来事を書いて欲しいとの依頼がありました。

そして以下はすずさんの感想です。

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後日談

 

すずさんは凄く悩んでいた頃とは変わり、その後、バンドマネージャーに関係性の別れを告げたそうです。

 

僕はただ話を聞いてちょっと思ったことを伝えただけですが、何かできたのでしょうか。

少しでも相談してくれた人に対して、良い影響を与えれたらなと思います。。

 

 

おわり

 

 

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