*この記事の内容はネタバレを含みます。
はい、『愛のむきだし』 は僕が今までの人生で見てきた映画の中で1番好きな作品です。
というか、『愛のむきだし』を見て映画を好きになりました。
個人的な話なんですけど高校生の頃、家庭的に色々あったときにTSUTAYAで『愛のむきだし』を借りてたまたま見ました。
もう、それは衝撃で、237分あるんですけど気付いたら見終わって、ゆらゆら帝国の空洞が流れていました。
主人公は童貞で勃起をしたことがなく、女性を性の対象というより崇高な存在として捉えているんですよ。なので、女性の股間=勃起とはならないんですね、それで唯一のマリアを探すんですよ、主人公のユウは。
ユウ、そしてヨーコ(満島ひかり)も父親というものに依存していて、
ユウは父親への承認欲求の末にもっと怒られたい、殴られたいとなり、ヨーコは父親のせいで、男が憎くて、破壊したい、本当の父親がああやからこそ、父性を誰かに求めてる、存在しない父に依存して苦しんでるようなんですよ、
一方、コイケ(安藤サクラ)は父親に虐待を受けて性に対する意識が曲がって、男を意識するけどセックスは罰って認識してるんです、
「お前は罪だ」と言われながら性虐待を受けててね、セックス=暴力のようになっているんですよ、なのでコイケの愛の形は暴力に化し、好きな人ができたらカッターで刺すんです、挿れる行為は罪、そしてコイケはカッターを好きな人に刺す
その後に「セックスしてんじゃねえよ」と言いながらカッターを振り回すんですよ
コイケが使うハサミやナイフや刀はセックス、挿れる作業のメタファーと言いますか、代わりの形やと思っていて、
性行為は罰なんやけど、その代わりが暴力になってるんですね。
そのへん、コイケの愛の形は曲がっているんです。
コイケは父親に対してコンプレックスがあり、その空洞を埋めたのが新興宗教0教会でした。
主人公ユウはキリスト教で神父の父親に依存し、母性の空洞をマリア様で埋めてそれが性に対して悩ませる原因となっていて、ユウとコイケは似てると思うんですよ、
でも、ユウは真っ直ぐその力が信仰に向いてて、コイケは0教会で、コイケは何処かユウに憧れじゃないですけど、あの真っ直ぐさ、真っ直ぐな愛を自分に求めていたと思います、コイケの愛の形はどうしても暴力と結びつくんでね、コイケが死ぬ間際もユウを見ながら「私とおんなじだね、」と言います。ただ、その力の向きや、ねじ曲がった原因が違うだけで、根本はたしかに似てると思います。
そしてコイケが自らを刀で刺し、自殺して、胸から小鳥が出てきたのは自己破壊して次のステージ、新たな自分に生まれ変わる、愛=暴力の形を壊す意味やと思いました。
好きな人を刺してしまう愛の形を、自分を刀で刺すことによって生まれ変わる、こういう意味と僕は捉えました。
バスのシーンで、愛=暴力のコイケはヨーコにナイフを渡し、ユウの股間を切るように促します。
ただ、ヨーコはナイフを使いませんでした。そのとき、ユウに対して愛を持っていたというよりは、ヨーコも愛の形はユウと同じ、いや、ユウより信仰に向いていてコリント書の第13章を信じていました。
0教会に入信したヨーコも愛の形は、真っ直ぐで、愛=暴力とはならないんですよ。
コリント書第13章では愛がもっともこの世で強いものとされ、そこに暴力は入る隙もありません。
ー【コリント書第13章】ー
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、 やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、鏡と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
『愛のむきだし』は様々なことが237分のうちに起こりますけど、タイトルから「愛」の話であることは間違いなく、その愛の形、人によって違う愛の形を映してる映画で、自分が持つ愛の形を恥じるなと、まあコイケのような愛の形は社会的には間違ってはいるんですけど、コイケの振り切った狂気的な愛もあって良いと思います。
人間の振り切った様々な愛の形を映画で見れて、凄く良いなあとなりましたね。
『愛のむきだし』は好き嫌いはっきり分かれる作品で、好きな人は大好き、嫌いな人は「理解できない」「何が良いのかわからない」みたいな感想になると思います。
僕は普通に出会って普通に別れたり、続いたり、みたいな話の方がノレないですねえ。
『愛のむきだし』なんて、「奇跡まであと365日」とかカウントダウンしますからね、ユウとヨーコの出会いを。
でもね、『愛のむきだし』ってユウとヨーコは互いの愛を意識してそういう行為をするってのは、手を繋ぐくらいなんですよ。
キスの場面はあれは、互いを意識はしていなかったんでね。
やから凄い純粋なんですよね、でもエロいんですよ。2人が性行為を飛び越えて崇高なものになった気がする。
映画でもドラマでも見てる側からして、視覚的に性行為は2人の愛をわかりやすく感じさせます。
でも『愛のむきだし』はそれを越えてるんですよ。そういった行為をしていない、手を繋ぐのも最後だけなのに、凄く映画から「愛」を感じれるんです。そのへん、凄い面白いなって思います。
園子温監督は、挿入が人間のベストの愛の形じゃなくて、それ以上を求める、信じてるんじゃないかと思います。
セックスに対して罪の意識がありながらも求めてしまう、そういうぎこちない意識があるんじゃないかなと、思いました。でも、その考えはわりとみんなも持ってません?
『愛のむきだし』は人間が持つその、愛とセックスと罪の意識っていうぎこちなさを上手く映しているなと思いました。
寂しさを埋めるためか性欲を消化するためか、相手はどっちなのか、自分はどっちなのか、みたいな問題ってあると思います。
愛を感覚的に感じる行為である、セックス、でもそれはなんかぎこちない、精神的に満たされてない感じがする、でも、求めてしまう、その感覚を持ったことがある人はいると思います。
やっぱり、それ以上の愛の形、その愛の形は見えないものやと思います。
やからこそ、『愛のむきだし』ではユウとの性行為は無かった。ユウはヨーコに勃起しますし、ヨーコはサソリ(ユウ)を想い、自慰しますけど、2人が物理的に結ばれるのは手を繋ぐまでやった、
んーすげえ純愛映画ですよ、
パンチラとかavとか出てきますけど、なんか純愛なんよなあ
エロを排除してないってのも良いんですよ、そのへんが人間味が出てる。エロを排除してないというか、めっちゃエロい映画でもあると思うんですよね、そのへん普通じゃないんです、好きやわ〜。純愛映画でありながらも変態映画でもある、面白い。
あああとね、僕、ロイドマスター 大好きです。あの、盗撮の先生。
俺も生徒になりたいなあ。いや、盗撮したいとかそんなんじゃなくて、普通にあの人のもとなら安心できそう
『愛のむきだし』でいろんな父性が出てきますけど、僕はロイドマスターに父性を求めますよ
なんか、理解してくれそうやし、かえれそう
最後に、ロイドマスター唯一の著書
【オレの哀しみ】から
オレは哀しい
その哀しさには意味がない
というより何で哀しいんだろう?
色々考えたんだが
決め手がない
だから哀しみの理由を探した
わかるか?