ぼんくら解体新書

俺は絶対サブカル男子ではないっ!

銀杏BOYZ エンジェルベイビーのMVを見て、

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 どうもこんにちは自称バームクーヘンです。

昨日ですか、銀杏BOYZの新曲「エンジェルベイビー」のMVが発表されましたね。

 

ツイッターでは、僕のTLでは呟いてる人達を見ると、簡単な言葉で表しますけど4割絶賛、3割いい感じ、残りがあんましみたいな感じでした。

僕もすぐ見ました。

ええ、曲自体僕はあんまりのれなかったので当然っちゃ当然かもですけどMVも、もやもやした感じになりました。

批判したいから聞いてる、見てるわけじゃないんです。やっぱり思うことがあるんですよ。

今回のMVは松居大悟さんが監督されてて、第3者的視点から見た、新たな銀杏BOYZの姿を見せるプロモーションビデオてのが凄く伝わりました。

やからこそ、合わないとこも出てくる。

 

銀杏BOYZが形を変えてるのは明らかです。

その変化に追いつけないんですよ。

好きなものが離れていくのはつらいことです。

「じゃあお前が変われ」って感じでしょうけど、そうもいかないんですよね。

もうね、ややこしいやつなんですよ、たぶん

なんせ変化に追いつけない、ついていけない

先月のライブではそれを凄く実感して、みんなが成長して新たな世界にいってるのに俺はこのままっていう。凄い感じました。

先月のライブのことは前の記事で書いてるんでよければそちらを。

 

そういう、新たな銀杏BOYZに追いつけない側の1つの意見として書きます。。 

なんでのれないのか?もやもやしちゃうのか、昨日からすげえ考えたんですけど、たぶん僕の中での銀杏BOYZ像みたいなのが確固たるもの、確固たる音楽になりすぎたのかなと。

あと、峯田は過去の発言とゴイステ、昔の銀杏での表現と、今、峯田が望む新たな姿との、整合性が保てないんじゃないかなって考えます。

どうしても矛盾してまうっていうか。

銀杏BOYZていうのが皆の中で、できあがりすぎて、変化に対応できる人は良いけど、ついていけない人も出てくる。

ゴイステや過去の銀杏が描く世界観の整合性を保つには変化したい姿になれないし、新たな姿になろうとすれば''あの頃''が付いてきて、なかなか離れてくれない。

そんな狭間、どう動きもできない、どうしたらいいのかわからない、みたいな状況に立たされたからこそ、去年「生きたい」を出したのかなと、

 

今年はえらい活動的でシングル3連続の第1弾、「エンジェルベイビー」が発表されましてね、MVも出て、

MVはね、童貞ソー・ヤングと似てるんですよ、でも構造が違う。

意識して似たように作ったんでしょう。

エンジェルベイビーのMVは僕は登場人物はそうなんですけど、銀杏BOYZや峯田自身の旅立ち、成長の話やと思ってて、

まず、MVに出てくるリュックに銀杏のバッチを付けたあの少年は''あの娘''にフラれて銀杏のポスター貼った部屋で「犬人間」を聴きます。

ほんでベッドで暴れる。これはskool killのPVの部屋で暴れるっていうオマージュですよね。要はこの少年は昔の銀杏の姿のままタイプなんです。

冒頭であの娘の手を握った右手でオナニーしようとするんですけど、こういう行動も童貞ソー・ヤングを連想させます。

んで、親父がやってきてヘッドフォンを壊すんですよ。昔の銀杏の姿を、固執してたあの頃を音楽に見いだしてた、その音楽を親父に絶たれるんですけど、少年はそれを直そうとしますよね。壊れたヘッドフォン。

でも、いくら直そうとしてもヘッドフォンは直らないんですよ。

昔は過ぎる、もう''あの頃''じゃないんですね、銀杏BOYZは。

するとラジオからエンジェルベイビーが流れ出す。

リビングでは破綻した夫婦関係のギスギス感がある中、親父はエンジェルベイビーを聴いて「べろちゅー」する

ここでスローモーションが使われて、少年のカット。ここでもスローモーション。

このカットは親父が少年とリンクするのを表していて面白いと思いました。まあ親父は「べろちゅー」を拒否られて走り出すんですけど、この走り、男が走るってのは童貞ソーヤングでは夜に走ってるんですよ。エンジェルベイビーはね、昼間なんですよ。少年がオナニーするのも昼間なんです。

ここで童貞ソー・ヤングと似たように見せて相反関係にあることを表してると感じました。

そして歌う峯田の前には、あの娘がいます。親父はいたたまれなくなって家から「走って(現実から)逃げて」あの頃のあの娘の元へかえります。

ほんで、あの頃のあの娘を夢見て一緒に自転車に乗るんですけど、自転車ニケツは佳代を、飛び立つって意味では銀河鉄道の夜を連想させますね。

 

飛び立つのは謎の『E.T.』のパロディが出るんですけど、この演出はどういう意味なのでしょうか。

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E.T.』はスピルバーグの映画ですけど、スピルバーグは両親の離婚と、少年時代の友人関係のコンプレックスが物凄く映画に出てる人なんですよ。同じくスピルバーグの映画『未知との遭遇』では離婚と、自分の夢ってのがテーマに出てきますし、 『未知との遭遇』は結局、夢を追い求めて夢を貫くって感じで終わるんですけど、『E.T.』は宇宙人と友達なったあとで現実見て、地球に残るんですよ。成長してんすよね。会えなくてもずっと自分の中ではいる、友達のまま、想像の中に友達の姿を残す、夢の1つを心の中に閉まって終わるんです。

 

あ、ちなみに『未知との遭遇』のキャッチコピーは「we are not alone」です。no future no cryの歌詞に出てきますね、

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はい、ほんで『E.T.』は少年の夢は心の中へずっと残しながらも現実的になる成長の話て僕は考えます。

エンジェルベイビーのあの親父もあの頃のあの娘を追いかけて飛び立つ、でも結局それは妄想オチで終わって、''あの頃''は''あの頃''で閉まって、スローモーションから始まった妄想が終わり、現実のシーンに戻るとMV冒頭で息子があの娘の手を握ったように、嫁さんの手を取り、「べろちゅー」ではなく、「セックスしよう」と言います。

あの頃、あの娘だった嫁さんの姿はもうないけど、心の中でいる、現実的にそれを親父は受け入れたんじゃないかと思います。

そして親父はかつての自分(息子)のかつての自分の部屋、ひとりぼっちにさせた部屋に向かい、息子に「お前は悪くない、お父さんと外行くぞ」と言い、2人は外へ行き、光の玉が2つ空へ上がります。光の玉は彼らの成長を表していて、上へ昇り、その次のカットではシャボン玉の後ろに峯田。

銀杏BOYZが''あの頃''の姿ではないけど心の中にはいて、それを峯田はわかってる、心の奥にしまいこんで、新たな姿に成長、変化しようと。それが伝わりました。

 

 ''あの頃''のメンバーはいないし、自分も変わってしまった、あのままで今も活動してたらどうなっていたのか、あのままあのとき描いた夢を心の奥に秘めて、新たな姿になる。そういった銀杏BOYZの考え、峯田の考えをMVから僕は感じ取りました。
 

 

考察してたら構造的な良さはすげえわかるんです、良さはわかる、良さはわかるけど、ってなったのが凄い無念です。

構造は面白いんですけど、演出が、ちょっとね、ふざけてるのか、真剣にしてるのか、真剣にふざけてるのかわからないんです。

その意図がはっきりしないから面白くないように見える。セットも、別になんてことない普通の家でいいのに、あの家、全部が綺麗すぎて本物の家でやってても作り物感、セット感丸出しなんですよ。部屋も散らかってるのに物1つ1つは綺麗とか、学生服も親父の作業着も(ちょっと汚れてるけど)も 不自然に綺麗で、テーブルの調味料が全部満杯とか、そういう細かな、でも基本的な演出を怠ってるように見えました。

あの、銀杏のバッチとかポスター、しかもそれが見せつけるかのごとくカメラに映る、それはしつこすぎます。。それがくどく感じちゃいました。

そのへんは第3者視点での銀杏BOYZをプロモーションする、その目線が上手く機能してないと感じました。

これまでのファン受けというよりこれからのファン向けの方に力が入ってる感じがしました。まあそれがMV、PVってもんや!と言われたらそりゃそうなんですけどね。

 

演出的にもう、それはわかってるやん、わかってるやん、が続いて、そういうことじゃないっていう風に着地しちゃうんですよ。

くどい演出が前半に続きますし、作り物感溢れる家のセットは、そこに生活感、日常、リアルを疎外して、見てる側にフィルターがかかってまうんですよね。

でもエンジェルベイビー自体が、そういった空想とか頭の中での話っぽいとこもありますし、リアルを感じないのは、それはそれで良いかもしれませんけど、そのへんのれないのがたぶん好みなんやろなー。

 

あとね、銀杏も峯田も親父も少年も成長しましたけど、残されたのは嫁さんや''あの娘''なんです。

あのMVやと嫁さんもあの娘も現実世界では結局最初から変わってないですからね。

自身は成長して姿を変えても、たぶん峯田の考える女性像は変わってないんでしょうねえ

銀杏の形が変わってもそこは変わってないことがわかりました。

女性が男視点で「いつまでも光の中で立っている」てきに見られるのもどうかと思いますし、そのへんも考えました。

あのMVは''男だけ''が成長してる話なんですよ。

峯田のロックに対する見方や音楽に対する見方が変わったのなら、銀杏の曲で''あの娘''とされる、女性側の変化や成長も見たかったです。

銀杏BOYZの形が変わるなら僕は光の中に立っているあの娘、あの娘も変わって欲しいなー。

 

峯田は峯田自身で自分は世界を変えれないけど、ロックンロールで自分の世界は変えれる、と歌いました。

まさにそうで、音楽で人は変わるでしょう。

でも''あの頃''を歌ってくれるのが昔の銀杏BOYZだったので、要はあのときのどろどろのねちゃねちゃの自分を歌ってくれてそれに固執してたのに、急にロックンロールは世界を変えてってなると変化に対応できない人、過去に固執してしまう人が(僕を含めて)いるのは当然と思います。

やからやっぱり、かつての表現の仕方、伝えてたことと、これからやりたい方向性ってのが整合性合わないんやろなー。

それが銀杏BOYZファンの2極化に繋がってるんやと思います。

 

もうね、これからシングル出て、武道館やってって変わり続けるでしょう。対応できない固執人間様はどうすりゃいいのですか、

いや、知らんがなって感じでしょうけど、このもやもや感、何処にやればええのかもわからんし、こうやってねちねちブログで書くしかないんですね、 

 

ほんまはシングル出て、ツアー発表されて、素直に喜べるファンに僕はなりたい!!!

俳優業は置いといて音楽活動はほんとは全部ノッていきたいんですよ、でも無理なんです

自分の中での銀杏像が、''あの頃''の自分が邪魔するんですよ。

ほんま、僕はいつからこんなんなっちゃったんでしょう

こんな、銀杏保守派みたいな、童貞・あの頃原理主義者みたいな、、

でもまあ色々考えるきっかけくれます、銀杏BOYZは。

面白いバンドであるのは間違いないですしね。

最後までありがとうございました。 

 

 

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