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銀杏BOYZ『僕たちは世界を変えることができない』

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こんばんは自称バームクーヘンです。

銀杏BOYZ アルバム『光のなかに立っていてね』については詳しく別の記事でも書きましたが、今回はそのアルバムの収録曲、『僕たちは世界を変えることができない』について書きたいと思います。

 

銀杏BOYZは明らかに『光のなかに立っていてね』以前、以後で作風が変化しました。

もっというと、『DOOR』『君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命』が初期、『光のなかに立っていてね』が中期、そして『エンジェルベイビー』から続く現在が後期と細分化できるかもしれません。

 

そして初期、中期、後期、と分けることでファンが感じる2014年ごろから最近までの銀杏BOYZについて、峯田和伸という男について疑問に思うことが少しわかる気がするかもしれません。

 

去年ごろから銀杏についての記事をいくつも書いてますが、その訳は銀杏BOYZを聴いて悩むのではなく、銀杏BOYZを聴いて考えれるようになりたい。悩むことと考えることは別ですから。好きなもので悩みたくはない、それが僕の銀杏BOYZを考察する動機だと思います。

 

  1. 僕と君の世界

さて、本題ですが初期の銀杏BOYZはいわゆる「僕の世界」イコール「君と僕の世界そのもの」としていました。つまり、もっと簡略化すれば「僕の世界は世界そのもの」というような感じです。

僕の存在と世界の存在が直結、イコールの関係にあるんですね。

セカイ系映画っていえばわかりやすいかもしれません。エヴァみたいな、主人公の内面と世界の存在概念が直結している感じです。

しかし、中期にて、『光の中にたっていてね』のアルバムから顕著にわかるように、峯田和伸は「僕と君の世界を変えるためには、自分が変わるしかない」という風に帰結しました。

それはある意味では正しかった。しかし、銀杏BOYZの過去からの流れからするとそこで矛盾が生まれました。

 

決して掴むことができない世界を目指して悶々としながら生きることに、初期銀杏は意味を見出し、作品に昇華していたわけですが、それは不幸のために生きているようなことと表裏一体な訳です。

おそらく、ファンの心理や声、メンバーの意見をダイレクトに受信していた峯田はそれからは脱却したかった。

 

そもそも、「僕の世界は世界そのもの」という考えは、他人の心を写して自分を見る過程をすっ飛ばすため、自分の世界に閉じこもったり、社会はクソやから自分も他人もみんなクソって潜在的に感じてしまうのです。

違う、そうではない。

それはそれで良いですが、どのみち社会はクソなんですよ。だから自分の日常を変えるしかないわけです。

 

だから『僕たちは世界を変えることができない』けど、日常に光を見出す作業が必要となってきます。

 

2. 日常と非日常

初期銀杏は非日常を求めていたけれど、非日常は日常ありきなわけで、自分の日常を許容するしかないと思います。

そのためには、「どのみち社会はクソだから如何に日常を密にするか、」それがキーワードになると思います。

 

ここで改めて『僕たちは世界を変えることができない』の歌詞を見てみましょう。

作詞 峯田和伸

作曲 峯田和伸 チン中村

 

ベイビー もう泣かないで
僕がそばにいるから
ベイビー まだ死なないで
僕は変わらないから
愛が邪魔してる
こんなもの 捨ててしまおう
愛しているのに
こんなにも そんなにも
きっと世界は君のもの
きっと世界は僕のもの
きっと忘れているだけ
もっと美しいこと
愛が邪魔してる
こんなもの 食べてしまおう
愛しているのに
こんなにも そんなにも
僕たちは世界を変えられない
僕たちは世界を変えられない
僕たちは世界を変えられない

 

 

一見、未だ「僕の世界は世界そのもの」という風な解釈もできますが、そうではなくそこから一周したというか、いうならば「(初期の頃に幻想していたような)愛を捨て、街に出よう」という風な解釈も可能だと感じます。

それがいわゆる、僕が思う、どうせ社会はクソなのだから日常を密にするしかないって解釈とリンクすると考えます。

以前、幻想していた愛が邪魔をしている、あの頃に抱いた世界が足枷になってしまっている。でも、世界は変わらない。

足枷になっている鉄球を外して、別世界を見つけよう。

その別世界こそが、今生きている日常なわけです。

 

つまり、初期と中期にて同じ日常に君と僕は立っていますが、同じ場所でも「僕たちは世界を変えることができない」と悟ることで、つまらないと思っていた日常が、結果的に違う意味合いになるのです。

中身が違うわけですよ。密にする事で一見同じようでもまるで違うものになるのです。

 

そしてどうすれば日常が密になるか、自分の日常を変えるには第1に、非日常的体験を日常に見出す、第2にそうするためにはやはり実りある対人関係構築だと思います。これの意味する対人関係とはコミュ力とかそういう話ではなく、「この人は凄い」と心から思える人間と接触し、深い関係を結ぶことが大事になると思う。こんな社会で少しでも感受性を豊かにして、実りある関係を結べば日常に光を見出すことができると思います。

 

 

きっと世界は君のもの
きっと世界は僕のもの
きっと忘れているだけ
もっと美しいこと
愛が邪魔してる

 

「僕の世界は世界そのもの」という考えであれば、「きっと世界は君のもの、僕のもの」とは歌わないでしょう。

世界と自分は直結していない、そう帰結し、今生きている日常こそが光っている。それを僕たちは忘れているだけ、そしてかつて幻想していた「僕と君の世界」という愛が邪魔しちゃっている、そう歌っているのでしょう。

 

鋭い人はもう、初期銀杏が自分の人生においてかなりこじらせの要因になっていることを自覚しているはず。

そして峯田自身もそう思っている。

だから、それをある意味で自虐的に『僕たちは世界を変えることができない』と歌に昇華した。

そういうことではないでしょうか。

 

3.矛盾

すると、銀杏BOYZ中期・後期と初期との間に矛盾が生じてしまうという必然性が生まれてくるわけです。

『僕たちは世界を変えることができない』が顕著に表す初期銀杏との変化は1つの選択肢としては正しかったかもしれないけれど、銀杏BOYZの過去からの流れから考えると矛盾がある。

銀杏というバンドの視点、ミクロ的に見れば「昔と違うくない?」てなるのは当たり前。

ただ、全体性を考えれば『光のなかに立っていてね』や後期(現在)の銀杏BOYZ峯田和伸の選択肢は正しかった。かもしれない。

 

後期と中期でも矛盾を感じるところもあり、なんせややこしい。銀杏BOYZめ!

しかも近頃の銀杏はライブで関係なしに昔の曲やりだしたりするからな〜〜〜〜

だからややこしいねんなあ。峯田よ。

 

あああ、世界が滅びてしまう。

おわり