ぼんくら解体新書

俺は絶対サブカル男子ではないっ!

大森靖子さんの 『死神』を聴いて。

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こんばんは自称バームクーヘンです。

僕は以前、大森靖子さんの著書『超歌手』についての記事を書きました。

 

それからというもの、アルバム『クソカワPARTY』の曲、そしてMVを見て、聴いて、色々と思う部分がありました。

そこで、自分の考えを交えながら前回の『超歌手』の記事をもう少し噛み砕いた感じで書きたいと思います。

 

⚠︎曲やMVの解説というよりは僕個人が感じたことを書いています。

 

『死神』

アルバム一曲目『死神』

メロディついて。

初め、綺麗な旋律が流れます。

そしてその後突然、ロック調に極端に切り替わります。

そこからは大森靖子さんの声とともに、この世を一掃して作り直すかのように音そして言葉が広がり、独特の世界観に包まれます。

 

さて、曲名の『死神』ですが、なぜ死神なのでしょう。

僕が思うに、大森靖子さんはいくつかの曲にて「あえて逆からアプローチする表現」の仕方をしていると感じます。

逆からのアプローチとは何か?

それは、生きることを前提に死を描くのではなく、死を描くことで生を描くということです。

表現の多くは前者(生きているから死ぬことが尊い)ですが、僕はその逆のアプローチ(死ぬから生きることが尊い)という表現方法も存在していいと思います。

それを美しく、見事に大森靖子さんは表現している。

要は普通ならこうするところをあえて逆のものを見せてから伝えたいことを表現する訳です。

歌詞でも「あえて逆からアプローチする表現」は顕著に現れます。

 

ー履歴書は全部嘘でした 美容室でも嘘を名乗りましたー

 

羅列される嘘、繰り返される嘘、''だからこそ本当の自分''が際立つわけです。

 

さらに、

 

ーいつか別れるかもしれないから 形あるものは全ていらないー

 

このように「いつかのあるか無いかわからない未来」という観念がまず提示されるのです。

あえてマイナスから導入することで、あえて自分からすると不幸せな場面を提示、想像する事で、いつか見つける、又は既に存在しているかけがえのない人の''唯一性''が際立つのです。

 

よく考えれば、恋愛において自分が相手と関係のある存在ならば、その関係が続くか続かないかどちらかしかないわけです。

 

そこを、あえて、「いつか別れるかもしれない」と、無い未来を最初に提示して聴く側に相手との関係性、それが流動的か唯一性があるものなのか考えさせるわけです。

ただし、間違っても本当に大切な人を自己完結して終わらしてしまわないようにしましょう。それを見誤れば、未来が強迫観念となり、自分の首をただ締めてしまうことになる。

 

さてさて、『死神』はあえて自分にとってマイナスなことを提示することで聴く側に''考えさせる判断''を委ねます。

 

そしてその後の歌詞で

 

ーだけど

見た目とか体裁とかどうでもいいっていって抱きしめてよ
いつか男とか女とか関係なくなるくらいに愛し合おうよー

 

と歌います。

『死神』はこのような歌詞の反復を意識すれば、聴き方が大きく変わると思います。

僕が思うに、大森靖子さんは「逆からアプローチ」しているわけで、ダウナー、聴く側がどんどん沈むために歌っているわけではないのです。

見た目や体裁に捉われる社会や日常、どうせそれは変わらないし変えたくても変えられない。曲のメッセージとしては「どうせ社会はクソなんだから、個人ベースで日常を密にしよう」ということだと僕は感じました。

 

自分が天使か死神かわからない、相手も自分にとっての悪魔か天使かメシアなのかはわからない。

だけれどその大切な人と大切に過ごしたい。

ならばそんなの(死神or天使)はどちらでもいい、社会がいう見た目や体裁もどうでもいい。

そんなことはどうでもいいから、死神でもいいから愛をもってして大切にしてくれる人と幸せになろうよ、と。

いつか死ぬからこそ、''生''が尊い

''死''から''生''を考えるわけです。

 

「自分はきっと''死神''なんだ」と断定してから、そのようなメッセージが伝えられます。

 

ー死んだように生きてこそ 生きられるこの星が弱った時に
反旗を翻せ 世界を殺める 僕は死神さ

川は海へとひろがる 人は死へと溢れる
やり尽くしたかって西陽が責めてくる
かなしみを金にして 怒りで花を咲かせて
その全てが愛に基づいて蠢いているー

 

そしてここの歌詞が僕は特に好きですね。

 

ー世界の終わりなんて僕たちはもうとっくに
みたことあったんだ そう 何度も負けたけどー

 

「世界の終わりなんて僕たちはもうとっくに見たことあったんだ」イコール、そもそも世界の終わりなんて見れないしそれは不可能なため、その認識、終末を見た記憶なんてのは想像としてはあっても、体験としては無い訳です。

つまり、要約すればこの社会に世界の終わりなんて無いというわけです。

夢見る2人の世界、「ここではない何処か」はこの社会にはないのです。

だから、日常を生きるしかない。それは負け続ける日々かもしれないけれど、かけがえのない日々でもあるかもしれない。

 

例え、人からどう言われようが、死神だと思われようが、日常を密に、そして愛を持ち、''死''から''生''を考えることで終わらない日常を生きる日々を、少しでも長く続けられるのではないでしょうか。

 

『死神』のMVではどうやら実際に起きた事件や事故を立て続けに映像化し、繋いでいるように思います。どれも''死''関連。

''死''の洗濯をする大森靖子さん、それは死と生の狭間にいるようで、それが死神なのか天使なのかは見ている側はわからない。判断できないのです。

ただ、作品として''死''をテーマにすることで、同時に''生''のメッセージ性が存分に現れてくるわけです。

 

なんてことない日常から光を見出すこと、小さな幸せを見つけることに、いつからか恐怖心を持ってしまった方に、特に『死神』のメッセージは沁みるでしょう。

実はすぐそこに光はあった、闇からでもそれはわかる。

 

『死神』、僕は大森靖子さんの曲では『マジックミラー』の次に好きですね。

 

ー僕が闘う場所で命が蠢いているー

 

自分の足で立っていたいですね。

ありがとうございました。

 

 

おわり。

 

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