ぼんくら解体新書

俺は絶対サブカル男子ではないっ!

『花束みたいな恋をした』を見た。

先日、『花束みたいな恋をした』を見ました。

前情報一切なしで見たのですが、この映画がまあ、ツッコミたくなる内容だったのでブログに書きたいと思います。

 

⚠︎ネタバレあり、あくまで個人的な感想⚠︎

 

ではでは、

『花束みたいな恋をした』

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ざっくりあらすじ

趣味が合う大学生の男女が偶然に出会い、恋に落ち、のちに同棲するも、付き合う年数とともにお互いの感情や生活のすれ違いでぎくしゃくしてしまい、相手を思って別れる選択をするというお話し。

 

まあ、ざっくりあらすじだけ見ると典型的な恋愛物語やと思いますが、他の映画とちょっと違うのはお互いの趣味の話がよく出てくるんですよ。

本、映画やお笑い、漫画や個展などなど。

それが終始物語に散りばめられてるんですよ。

 

ただ、その散りばめられた趣味の話が見ていて引っかかるんですよ。

物語と趣味の話が乖離しててなんか浮いて見える。

2人の人生とリンクしてないといいますか、なぜか物語に連結されていないように感じるのです。

 

2人が好きなもの、具体的には序盤の方で2人が出会う前に2人ともが天竺鼠の単独ライブを逃してしまうという出来事があります。

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ここで天竺鼠をだしてくるあたり、狙ってんなあ!!

 

たぶんね、これがミキとか和牛とかやと素通りしてしまうんですよ。

物語に直接関係なくても別にありがちな話やと消化できるのでいいですよ、しかしね、ここであえて、あえて天竺鼠という固有名詞を出してくるあたり、ちょっとまったー!!!

 

狙ってるよね。

 

まあこのあたりはいいんですよ、ええ、ええ、

 

と思えば、菅田将暉の部屋にAKIRAの漫画を置いてるのが露骨に映されます。

ピーキーすぎる!!

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はあ、ある層を狙ってるよな。

確実に。

 

こんな感じで、ことあるごとに互いの好きなものが強調されて物語は進むのですが、なにか引っかかるんですよ。

これは製作側の意図でしょう。

ある層がひっかかる固有名詞を散りばめて、いわば物語の狭間にフックを仕掛けるんですね。

釣りですよ。

そこでね、

「僕も、私も〇〇が好き!菅田将暉有村架純に共感できる!エモ!」

となれば完全に乗っかれると思います。

この映画に。

 

でも、僕は見てて逆にその散りばめられた固有名詞が異常に引っかかるんですよ。

花束みたいな恋をしたに出てくる固有名詞、それはね、僕が魚やとしたら釣り針につけられたエサを目の前にしてる感じなんですよ!釣り針やん、引っかかるかー!てなるんです。

 

あまり、その固有名詞が物語に直接関係してくるのかといえばそうでもないし、入れ替え可能な感じがするんですよ。

なぜそう思ってしまうのか?

 

他の作品と比べるのは申し訳ないですが、『モテキ』なんかはモロに固有名詞という釣り針だらけの映画ですけど、映画に出てくる固有名詞が物語と、かけ離れてなくて、違和感は感じないんです。

登場人物の人生と趣味がリンクしていてとても良いんですよ。きちんと趣味が登場人物の性格やしぐさ、人生観にリンクしている。

他方、花束〜を見ていて固有名詞に感じる違和感、それは物語と固有名詞の距離がすごくあると思うんです。

 

ちょいちょい固有名詞が出てくるだけで、根っこの物語とはあまり関係がない。

たとえば、「大学生の頃は〇〇というバンドが好きやったけれども、社会人になって〇〇とは対極の⬜︎⬜︎の魅力もわかるようになった、」とか、「失恋を経験して〇〇の音楽が余計に響く」とか、そういう人生と趣味の繋がりの描写がとにかくないんですよ。

それも、人生と趣味について刺さるセリフを後半に菅田将暉が言うのに、セリフだけで特に文化・芸術について人生におよぼす影響を劇中、描いていない。

 

だからこそ、物語の後半に菅田将暉が好きなものが吸収できなくなってパズドラしかできなくなったていうのが強調されてるとも、思いますが、それだけじゃ足りないような...

そのあとで別の好きなものができたり、以前に好きなものをより好きになったり、そういうのがないのですよ。

 

だから引っかかる。

 

とにかく固有名詞のあとのせ感が凄くて、趣味と人生について描いて欲しかった。

特徴的な固有名詞の数々が単なる観客を引き寄せるためのパンダみたいになってて冷めちゃうわけですよ。

 

せっかくの趣味が人生の物語に生かされてないのがすごく引っかかりました。

固有名詞をわざわざ散りばめられてるわりになにも影響与えないんかい!て。

 

そのようなね、描写があるわりには物語に生かされてないことが結構あるんですよ、

最初に出てくる2人の両親の存在、途中からまったく出てこないですよね、最初に出てくる菅田将暉の大学の同級生の女性(たぶん菅田将暉が好きな人)、まったく出てこないですよね、中盤に出てくるオダギリジョー、まったく2人の人生に影響与えないですよね、けっこうな役者さん使ってるがゆえに気になりますが、シーンを切っちゃっても物語になんら影響無いと思います。

 

そういう物語に直接影響を与えてこない、いや、もしかしたら影響を与えてるのかもしれないけれども、影響を与えているようには見えない人やモノがありすぎるんですよ、この映画。

だから余計な人やモノが多すぎて間延びした感じがしてしまう。

2人の恋愛感情や好きなものに対する姿勢をもっともっと重点的に描けばいいのに、たまに入るそのあと影響を与えない人やシーンの数々、、、

 

なので2人の感情にのっかれないですし、見ていてもこの映画は果たして見ている側になにを伝えたいのかわからなくなる。

 

この映画はなにを伝えたいのや???

 

途中からはずっと考えてました。

そして終わりそうで終わらない2人の関係は同作品そのものに影響を与えます。

 

終わりそうで終わらんなあこの映画!!!

 

実際、そう思いましたもんね。

2人の関係が悪い意味で作品自体に投影させちゃっている。

結局なにがしたかったのか、なんだったのか。

この映画と見ている側の関係と、映画の中の2人の関係が同じようになっちゃうんです。

 

結局なに!

 

それと、ちょくちょく引っかかるのが2人の生活面。

有村架純がバイト終わりに菅田将暉とコーヒー飲んで家まで帰るのですが、途中から生活に厳しくなったからゆーてコンビニのコーヒーにするんですよ。

 

そらそやろ!!!!

最初からコンビニのコーヒーでよろしわ!

十分ですわ!コンビニのコーヒーでも!

 

あとは夜な夜な飲みにいくの、

多すぎるやろ!パーティーみたいなんにそんなに参加する!?!?

そういうの嫌いと見せかけて自分もそういうサークルに入ってますやん!

カラオケには見えないカラオケ屋さんが嫌いゆーて、自分行ってますやん!!

東京ってそんなにパーティーするの?

 

あとは最後の最後で映画館の座席から転びそうになったんですが、お互い同棲解消して2人のものを分け合うシーンね。

2人がジャンケンするんですよ、

2人の近くには積み上げられた漫画や本。

ここで見ている側は思うわけです。

 

あー、漫画や本を分け合うジャンケンね〜

 

でもね、それ漫画や本を分け合うジャンケンじゃなかったんです。

2人が飼ってた猫、どっちが引き取るかのジャンケンやったんですよ、

 

いや、理性〜〜!

倫理〜!

猫の引き取り手をジャンケンで決めるな〜!

 

猫の引き取り手をジャンケンで決める2人ですよ、ありゃもしかしたら負けた方が引き取るルールやったら末恐ろしいですね。

 

まあまあそんな感じで2人の生活面でも違和感を感じるシーンがよくあったんですよ。

 

僕が『花束みたいな恋をした』を見て感じた大きな違和感。

一つは物語に散りばめられた固有名詞が入れ替え可能に感じて、2人の人生に生かされていない。

せっかくの特徴的な趣味がその後の2人の人生に影響を与えたシーンがない、それとそれらを含む2人の物語に影響を与えない登場人物(特にオダギリジョー!)

あと、2人の生活面での違和感。

エモーショナルな恋物語を狙っていたのか、なんなのか、ある層を狙ってるわりにはハマってこない感じ。

2人の関係性がそのまま作品自体に投影されちゃってる、はあ、なんだかツッコミたくなる映画でしたね。

 

でも、見て後悔ってのはまったく思いませんでした。

なんだかんだいっても2人の演技は良いし、特に菅田将暉が精神的に参ってるときの表情とか抜群に上手かったですね。

ありゃ凄いですよ。

いや〜なセリフをいうときの表情とかも最高でした。

ちょっと触れましたが、パズドラのくだりらへんの菅田将暉の演技は凄かったです。

 

おもっきりネタバレしましたが、まだ見ていない方は公開中(2021年2月23日時点)なので見ていただきたい!ほんとに!

 

以上、最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

自称バームクーヘン