ぼんくら解体新書

俺は絶対サブカル男子ではないっ!

『おやすみプンプン』感想。僕の世界は君のもの

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こんばんは自称バームクーヘンです。

浅野いにお作『おやすみプンプン』は単なるサブカル登竜門みたいな漫画ではないと思ったので、僕が感じたことを書きたいと思います。

 

(全13巻、拾いどころがたくさんあるので僕が感じた特に特に重要なキーワードだったりシーンのみについて書いているのでそのへんはご了承ください)

 

まず、

・神様とは何か?

神様というワードが一巻から最後までよく出てきます。このワードは『おやすみプンプン』の物語上のひとつの重要なキーワードなのでしょう。

さて、登場人物たちにとっての神様とは何でしょうか。まず、プンプンにとっての神様は、幼い頃から「神様神様チンクルホイ」と唱えれば大概は出てくる存在でした。神様はめちゃめちゃプンプンを否定することはなくプンプンの味方でした。それはプンプンの自問自答に近い。自問自答や俯瞰して自分を見た時に人からどう見られるかや、「普通」とは何かを誰か普通の人に聞きたいときにプンプンは神様を呼んでいたように感じました。プンプンは普通の少年、青年に思えるが、俯瞰して自分を見たり、自分を守るために「普通」になりたい欲が強かったように思えます。

そのため、「普通」を信じるプンプンは俯瞰でプンプンを見てくれる存在を神様としました。「普通」っぽいことを言わなきゃいけない場面や当たり障りない行動を取らないといけないとき、自分を指南してくれる存在を神様と位置付けたのです。

ただ、いわばその神様はプンプンが神様と言ってるだけで、本当は自分自身であり、プンプンが想像や妄想を膨らまして相手の意図を読み取らなかったり、自己完結して対人関係を終わらせる性格に付属してる神様でプンプンのダメなところの象徴でもあると思います。

 

一方、愛子ちゃんはどうでしょうか。

愛子ちゃんは家庭がプンプンよりも複雑でエセの神みたいなのが近くにいる環境です。エセのせいで世界に神様なんていない、自分に救いはない、誰が自分を救ってくれるのか?みたいな問いを小学生の頃から持っていたように思えます。そういった意味では愛子ちゃんも「普通」になりたい、「普通」を信じていてそこはプンプンと似ていたのではないでしょうか。

これは非常に重要かなと思います。おやすみプンプンは「普通」になりたい2人の"特別な"物語なのです。

ただし、プンプンは漠然と「普通」て良いよなて感じであったが、愛子ちゃんはそのバックボーンがゆえに、強く「普通」を求めていた。

 

他の登場人物たちにもそれぞれの神様はいました。共通しておやすみプンプンでは「自分が信じるもの=神様」だと定義付けられていると思います。日本ではキリストも仏教も強く根付いているわけではないので、個人の想いをそのまま神様レベルまで引き上げちゃう癖があるのかな、なんて思ったり。

ただ「自分が信じるもの=神様」というのは凄く読者も共感しやすいのかなと思います。だって、誰だって嫌なことがあったり、解決してほしいことがあれば何かわからない存在に対して「お願いします」て心の中で思ったりするじゃないですか、対象が不明なのに祈る、その不明な対象が神様なんじゃないかって僕は思いますし。

 

さて、プンプンと愛子ちゃんはそうやって「普通」に生きたい願望を持ちながら日常生活をそつなくおくります。しかし、やがて日常だけでは面白くなくなってきてしまう。終わらない日常、それは退屈で暇だ。じゃあ何が自分を刺激させるのか?

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・普通の否定

物語が進むに連れて、普通に憧れる2人は成長していくと普通のムダさ、ダメさを目の当たりにします。普通に見える家庭、叔父さん、世間などはそんな綺麗なものでもなんでもない。世間のいう普通とは、すごく簡略化すると、趣味では流行りの音楽を聴いて、映画を見て、〇〇歳で結婚してその後子供ができて、マイカー、マイホーム買って何気ない日常を過ごすという意味でしょう。「そんなの面白いのか?」、普通に少しでも希望を持っていた特別な2人は考えます。

愛子ちゃんは中学になり普通に恋愛してみるが、プンプンも愛子ちゃんと離れてから普通に恋愛しようとするが、何か違うなと感じる。2人は「普通」をどんどん否定していきます。ただ、歳を重ねるにつれて「普通」でないと社会の輪からは外れてしまう。しかし2人は普通を否定する。

このねじれ現象は物語の後半に大きく作用してきます。ねじれが爆発したとき、一線を超えてしまう。

普通を否定し、刹那的なものを求めてしまう。あの頃の愛子ちゃん、あのときのプンプン、あの瞬間に結ばれたい。結ばれて終わりたいと考えてしまう。普通を否定することで、社会の輪からは外れていくのです。小学生のときにつるんでいた友達たちが知らないうちに離れていくのもそういうことでしょう。

普通を否定することは言い換えれば、日常ではなく非日常を求めること。それは日常が遠ざかっていくさま。プンプンも愛子ちゃんも日常を欲するのに、特に物語の後半でお互いの刹那的な愛に惹かれてしまう。

物語の後半で愛子ちゃんはボロボロの身体で爪を噛みながら「普通でいいの普通で」と言います。なのに、非日常を求めてしまう。プンプンを求めてしまう、そこまでしても2人になりたい強い気持ちだから特別な物語であり、読者が惹かれる所以じゃないでしょうか。日常よりも非日常へ、退屈の反対は事件なのです。終わらない日常を捨てて、退屈な毎日を捨てて、好きな人を求めてしまう。そういう2人の物語なんじゃないでしょうか。

なぜ2人は惹かれるのか?2人の共通点は何なのか?

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・自分の居場所

プンプンと愛子ちゃんは前述のように「普通」になりたいが、同時に非日常も求めている。いわば何がしたいかわからない状態なんですが、それは言い換えれば自分探しではないが、何かを探している状態なんです。その何かとは、所在=居場所です。心の拠り所がない、プンプンの父親はどこかに行き母からは愛されず、対人関係もどこか俯瞰して行動してしまう。愛子ちゃんは家庭に難あり、普通に恋愛しても上手くできないし、救ってくれる人も現れない。2人とも心の居場所がないのです。帰る場所はあれど、心の帰り場所が不在。これは読んでいる読者もある程度共感できる部分でしょう。そして、その空虚な現代的な悩み。トポスがない、僕はそう感じました。自分の居場所、心の拠り所、所属という意味であるトポスには〈存在根拠としての場所〉〈身体的なものとしての場所〉〈象徴的なものとしての場所〉という意味があります。近代はトポスが失われて路頭に迷ってしまう人々が大勢います。

おやすみプンプンは裏テーマで現代のそういった寂しさも表現していると思います。トポスがないから非日常を求め、自分を変えてくれる、退屈な毎日を変えてくれる事件性を求めてしまう。

現実で愛子ちゃんや、プンプンを求めている、実際に居てくれたらなあと思う読者もいくらかは存在していると思います。自分はたしかにこの世に存在して帰る場所があるのだ、そう感じさせてくれる相手に出会いたいでしょう。僕と君だけの世界でありたいでしょう。

 

・僕と君の世界

「この人はちがう」

感覚的にそう思うことは誰しもあるでしょう。プンプンにとって愛子ちゃんがそうでした。愛子ちゃんにとってプンプンがそうでした。親から支配されてきた愛子ちゃんはコントロールしたい欲を潜在的に持っていたと思います(個人的見解)

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だから何色にも染めれそうなプンプンのことが好きになった。恋という呪いをかけた。「この人なら」という願望を込めて。そして2人は普通に生きたいが普通を否定し、非日常を求めます。なんとなく生きていてもふとしたときに出会い、惹かれていく。バス停で、電車のホームで、教習所で。思えば愛子ちゃんと偶然出会うときは乗り物の近くだったように思えます。これが意味があるのかはわかりませんが、現状から離れたい、場所を変えたい、その想いに意味を持たせているのかもしれません。

物語の中盤で2人は出会い、ついに関係を持ちます。非日常にどんどん突き進みだします。日常を捨て、非日常の方に走る。

それまで社会をなんとなく生きてきた2人はどんどんと、2人だけの世界に移行していくのです。少し前もって説明すると、社会というのはいわゆる現実的な日常の話です。学校での社会、仕事場での社会、つまりは終わることのない日常。しかし、物語の中盤以降で2人は日常の社会はクソだと実感します。社会はクソだから見限ってそれよりも夢見て2人の世界に、生きている実感を見出そうとしたわけです。

でも、ここでパラドックスに陥るのです。その夢見た2人だけの世界っていうのは手に入れても、現実的には自分自身は社会の中に帰依するために、夢見た世界を手に持っただけで、それすらも社会、日常の一部になってしまうわけです。つまりは手に入れた瞬間に夢見た【世界】は消えてしまい、結局のところ幸せと呼べるものを実感できなくなる。

ただ、愛子ちゃんもプンプンもおそらく「それでもいいや」って思えれる存在だった。

愛子ちゃんの母親を殺してプンプンは思いました。

「この世界はもう僕のもの」と。そして愛子ちゃんと旅するうちに変化していくのです。「僕の世界は君のもの」と。

「僕の世界」イコール「君と僕の世界そのもの」あるいは、「僕と君の世界は世界そのもの」というような感じです。

僕の存在と世界の存在が直結、イコールの関係になり、プンプンと愛子ちゃんの内面と世界の存在概念が直結している感じです。

愛子ちゃんとプンプンは愛子ちゃんの母親を殺しました。

支配してきたものを殺すことで、愛子ちゃんは何にも縛られなくなります。プンプンは愛子ちゃんと2人の世界に浸ることで社会から解脱しました。彼らにとって社会的に何が善で悪かなんて、もはやどうでもよくなるんですね。社会から逸脱しても、好きな存在。特別な存在。

だから、もう2人に常識は通用しません。2人だけの世界になったから、社会なんて関係ないもの。そして、彼女を守ることがプンプンにとっての生きがいなのです。だから2人だけの世界の変化は許されない、それがプンプンが自分自身を保つ唯一の方法なのです。愛子ちゃんが変わることも許されない。だから旅の途中で暴力的に愛子ちゃんをコントロールしようと(自分は)変化する。愛子ちゃんはプンプンをコントロールしたかったが、プンプンも支配されてきた人生なので、相手を支配しようとする。見方を変えれば支配するかされるかの関係性にも悲しいけど、なっているのです。

 

・2人の世界から再び社会へ

愛子ちゃんは自殺し、プンプンは死んだ愛子ちゃんをおんぶして歩きます。なぜ?

プンプンにとっての生きがいは愛子ちゃんを守ることだから。もう喋れないのに、信じたくなくてそれでも2人であり続けようとします。しかし、それもそんなに長い時間はできない。いよいよ1人になったプンプンは小さい頃から内面にいた神様と会話します。神と対峙し、「お前が死ね」と言い放ちます。そして自分を刺しますが、これは僕は成長の意味と捉えました。内面にいた神様を殺し、自分と一体化する。本当に死ぬわけじゃなくて、一部を殺すことでプンプンは飛躍するのです。

これまで触れてこなかったですが、物語ではもっともっと色んな人たちがいてて、プンプンを助けようとします。人との繋がりが希薄になる現代でも、おやすみプンプンで描かれてた星空のように、小学校のときのあの人、仕事場のあの人、それぞれに物語があり、ドラマがあり、すべて星のごとく輝いていているのではないでしょうか。

おやすみプンプンは鬱漫画、サブカル登竜門の漫画みたいな枠では収まりません。

浅野いにおは社会の目立たない人たちにスポットライトを当てて特別な物語にする天才だと思います。そしてそれぞれの星が繋がって物語が繋がっていて星座のようになる。

 

愛子ちゃんやプンプンのように「僕の世界は世界そのもの」という考えは、他人の心を写して自分を見る過程をすっ飛ばすため、自分の世界に閉じこもったり、社会はクソだから自分も他人もみんなクソって潜在的に感じてしまうかもしれません。それはそれで良いですが、どのみち社会はクソなんだから自分の日常を変えるしかないわけです。最後まで読んで僕はそう感じました。

プンプンは変化を恐れて、愛子ちゃんをコントロールしようとしたし、愛子ちゃんもプンプンをコントロールしようとした。ほんとは、変化し続けるのが僕が僕である理由で、君が君である理由なのでしょう。刹那的な運命は一瞬で散ってしまう。だけど、その一瞬が美しくて惹かれてしまう。悲しいけれど、2人の特別な物語にはかなり惹かれました。

群衆の1人にしかすぎない孤独感が蔓延する現代で、2人は運命の人と出会い一瞬でも光ったのだろう。そして、かつての知人や友人の輝いた物語とも繋がってラストにそれぞれが繋がる。星座のように

偉大な漫画でした。

 

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