こんばんは自称バームクーヘンです。
今回は大森靖子さんの曲、『GIRL'S GIRL』について書きたいと思います。
これまで大森さんの著書『超歌手』や曲『死神』について書いてきました。
『死神』の記事では大森靖子さんの独特な表現方法について書きました。前回記事がかなり前なので振り返ります。
〜死神の歌詞について〜
生を表現する上で、そのほとんどが「生きているから死ぬことが尊い」とされますが、僕はその逆、 「死ぬから生きることが尊い」という表現の仕方も存在していいと思います。
『死神』のMVでは死を連想させるシーンが次々と映されます。
ただし、それを美しく大森靖子さんは表現している。
僕が思うに、大森さんは「普通ならこうだろう」というところを''あえて''逆を見せてから伝えたいことを表現します。大森さんは普通という概念に囚われません。
『死神』も死というワードを使って生を歌っている。そしてあえてマイナスなことを歌うことで、自分自身や他者について考えさせる。
私ってなに?あなたってなに?世界ってなに?
そういう日常の素朴ですが、壮大な疑問に曲で答えようと試みているように感じます。超歌手として。
さて死神の歌詞にて、
ー履歴書は全部嘘でした 美容室でも嘘を名乗りましたー
羅列される嘘、繰り返される嘘、このように本当の自分というよりも嘘をついた自分が先に形成されます。
だからこそ本当の自分が際立つと思います。
さらに、
ーいつか別れるかもしれないから 形あるものは全ていらないー
ここでは「不透明な未来」がまず提示されます。
あえて、マイナスから導入し、曲の世界観へダイブさせるのです。
そのために、そう考えるとき相手の存在の''唯一性''が際立つと思います。
どんどん逆から表現する方法は用いられます。
「いつか別れるかもしれない」
と、無い未来を最初に提示して聴く側に相手との関係性、それが''流動的(つまりは誰でもいいような状態)''なのか、''唯一の存在''なのか考えさせるわけです。
ところで、物事には二面性があります。
〇〇であるが同時に□□である。
その、〇〇と□□の両方の要素を思考することが大事だと僕は思います。
それを踏まえないと、物事の一面だけを考えて悩んでしまい、自分の首をしめてしまう。
『死神』はあえて自分にとってマイナスなことを提示することで聴く側に''考えさせる判断''を委ねます。
見た目や体裁に捉われる社会や日常、どうせそれは変わらないし変えたくても変えられない。曲のメッセージとしては「どうせ社会はクソなんだから、個人ベースで日常を密にしよう」ということだと、僕は感じました。
はい、ここまでが『死神』についてです。
さて、『GIRL'S GIRL』はどうでしょうか。
『死神』では死から生の尊さを歌いました。
『GIRL'S GIRL』の歌詞で代表されるのはこの歌詞ではないでしょうか。
ーGIRL'S GIRL 女の子って最高
GIRL'S GIRL 女の子って最低ー
最高と最低。
この曲で大森さんは両極端の概念の振り幅を上手く使い、表現しています。
最高と最低、物事には二面性があることがここで表現されます。
『GIRL'S GIRL』
この曲が物語とするならば、この曲の登場人物の女性は漠然と悩んでいることがまず、提示されます。
ー私はいつ完成するのかな
とりあえずみたいな自分で誤魔化してる
完成した私で恋とか仕事とか
お茶とか自撮りとかしたいのにー
随所に''何者にもなれない自分''を表現する歌詞があります。
そのような歌詞が並んだ後に、「最高ー最低」と歌ってる。
あえて、悩んでいる事実や思考を羅列させた後で、最高と歌います。
それでも自分で、自分を肯定する。
その後で最低と歌う。
自分はもっともっと最高になれる。
だけれど勿論、最低な部分も人間だからある。
最高で最低な自分、最低で最高な自分。つまり『GIRL'S GIRL』はかわいいがテーマの人間賛歌です。
さて、そもそも''かわいい''とは一体なんでしょうか。
僕は、最近、SNSをはじめとして''かわいい''が流動的かつ、消費されるものになってきていると感じます。
消費されるということは終わりがないということであり、しかも流動的。
であるならば、最後まで満たされないのは当然。
終わりがないわけですから。
それは歌詞の、
ー私はいつ完成するのかな
とりあえずみたいな自分で誤魔化してる
完成した私で恋とか仕事とか
お茶とか自撮りとかしたいのにー
で表現されていると思います。
第三者の目線によってかわいいが消費されてしまい、自分を認めれなくなってしまう。
自分は間違っていないのに、社会の大きな流れのせいで''かわいいの呪縛''を背負ってしまう。
むやみにかわいいとはこれだ!とカテゴライズはしたくないので過去50年間ほどで変化してきた''かわいい''の意味や概念について調べてみました。
それを知ることで如何に現代の社会が空洞化してきているか、その空洞に自分は悪くないのに巻き込まれてしまっているのか理解でき、呪縛から抜け出せるかもしれない。
まず、60年代初頭までは「性愛」と、「可愛い」は離れたものでした。
噛み砕いていうとエロと可愛さはリンクしない、むしろ対極にあるものという感じですね。
そのような解釈は半ば、女性が抑圧されていた時代を悪くも象徴しているようにも感じます。
女性はこうあるべき、男性像はこう、みたいにレッテルで男女を決めてしまう感じ。
そして抑圧。
性教育で、異性は性的なものなのに性的なものじゃないとされている感じですね。
このような思考の性教育は未だに日本には存在していると思います。
60年代は少女漫画が流行します。
それは少女漫画的可愛さの元年と言えるでしょう。
わかりやすい可愛さ=それが可愛いという感じでしょうか。
それがゆるやかな変化をしながらも70年代も続きます。
80年代、可愛いは自閉的なものでした。
自分の中で可愛いと思い、自分の中でその可愛さは浪費される時代です。
重要なのは、ここまでの時代は''可愛い''を消費はしていなかったという点です。
勿論、可愛い雑誌や可愛いヒロインの物語を読んで、見て、その本や映画やドラマを消費するということはありますが、そのこと自体、つまりはその物語に含まれる''可愛い''をひたすらに供給者は生産し消費者が消費するというものではなかったのです。
しかし、''可愛い''は徐々に社交ツールになります。
個人で「可愛い」と思うよりも、「これって可愛いよね、?」と他者と共有していくモノに変わっていきます。
そして80年代後半には性別問わず「かわいい」が適用されていき、90年代にはどんどん可愛いの適用範囲が広がり、人と共有されるもの、消費するものへと定着していきます。
そのようにして''可愛い''という概念も個人から共有そして消費するものになる訳です。
そして2000年代、かわいさの適用範囲はさらに拡大、大量生産大量消費されていきます。もう、消費されるモノになっていく。
誰にも止められません。
2010年以降、いよいよそれが溢れ出ます。
それ故に弊害、流動性あるものになり、かわいいが徐々に強迫観念へ変わっていきます。
「かわいくなきゃダメ」「もっとかわいくならないとダメ」という風に変化してきたのです。
かわいいという概念は、人に消費されるものでも大量生産されるものでもない。
消費する側はどんどん求め、対象となる人は満たされないままでいてしまう。
消費する側が「もっともっと」と、欲望が肥大化していく訳ですよ。
それ故、''可愛い''と思われる当事者が重しを背負うことになる。
さらに、snsでの承認欲求が密接に交わり、どんどん社会の空洞化の歯車の中で苦しんでしまう。
大きな社会の流れがそうさせてしまっているのであって、個人は悪くありません。大丈夫。
かといっても、そんな大きな流れに個人が対抗するのも体力を使ってしまう。
あえて抵抗しないことが最善の方法かと思いますが、それもとりあえずの策にしかならない。
そんな時代に、「あなたは大丈夫」「あなたの存在は大丈夫」だと、大森靖子さんは歌っているのではないでしょうか、大森靖子さんの唯一の音楽で。
しかしこのように解釈したとしてもホントの所は本人、当事者にしかわからない。
だからこそ大森靖子さんは歌い続けるのではないでしょうか、歌詞にするのではないでしょうか。
「わかってほしいとか思わないけど
わからないとかちょっとどうかと思う」
『GIRL'S GIRL』の曲の意味を要約すればこうだと僕は思いました。
「理解して欲しいけれど、私を完全に求めて欲しくはない」
僕はそんな風なメッセージを感じました。
以上
最後まで読んで頂きありがとうございました。