ぼんくら解体新書

俺は絶対サブカル男子ではないっ!

映画『ミッドサマー』

こんばんは自称バームクーヘンです。

今回は『ミッドサマー』の感想を書きたいと思います。映画全体の解説とかではなく、ただ単に僕がこの映画を見て感じたことを書いています。

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⚠︎以下、ネタバレ注意⚠︎

 

 

〜あらすじ〜

アメリカで文化人類学を専攻している大学院生達がスウェーデンの特殊コミュニティを訪れる話。

主人公はダニー。

ダニーは家族が無理心中しそれに悩まされ、彼氏のクリスチャンは同情し別れ話を切り出せない。

 そんな2人と友人たちでスウェーデンの村(ホルガ)を訪れるが、カルトな世界観に引き込まれていき、後戻りできない。

気付いた時には、どんどん部外者は消されていき村では理解し難い儀式が次々と行われていく。

ざっくりこんな話です。

 

〜失われた共同体、求める共同体的意識〜

 

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▪️実は壊れていた共同体

 大学院生たちはホルガ(コミュニティの名前)を訪れますが、それはあくまで文化人類学の研究という目的のため。

時折、ダニー(主人公)とクリスチャン(ダニーの彼氏)の関係性が実質、壊れていることが描かれます。

ダニーに同情してずるずると付き合っているクリスチャンと、私生活のトラウマで人間不信になっているダニー。

そしてクリスチャンの友人達も"知人"どまりで親交がかなり深いようには見えない。

つまりは大学院生たちのよくあるコミュニティのカタチは作れているけれど、既に彼らの関係性のキズナは崩れているんですよ。

彼らのミニ共同体は破たんしているわけです。

 さて、彼らは大学院生になって文化人類学を研究しているエリートですが、エリートがカルト宗教やマルチ商法の組織に入るのは日本でもよく聞きますし、同級生がそうなった、みたいな話もよくありますよね。

何故、意識高い系がそういう団体に入り込んでしまうのでしょうか。

それは一概には言えませんが、エリートは上を目指して頑張った結果「実は未来に希望はなかった」とか「これだけ頑張ったのに日常は何も変わらない」と気付いてしまい、そこへ怪しい団体が誘いにくるのだと思います。

小学生のときから親からの重圧で刺激を我慢し続けた結果、一度その刺激にハマると抜け出せないという風に、カルト宗教によるナンチャッテ神秘体験もそれが真実だと思ってしまうのです。

 日本ではオウム真理教はエリートだらけでしたし、知識がある故に一度神秘的な体験をしたり、心に入り込まれると一つの思考に固執して、それを盲信するということがあると思います。

 

▪️ホルガという共同体

 大学院生たちの"実は壊れていた友人達との共同体"に対して、ホルガのコミュニティはカルト宗教の名の下、統制が取れています。

だから、彼らはあのコミュニティを心理的に絶対悪とは思えない。

自分たちのコミュニティは空虚な訳ですから。

 さらに、彼らは文化人類学を研究しているために、安直に"此処はこういう文化なんだ"と断定しむしろ興味関心を持ちます。

劇中でも、高齢になったとして崖から飛び降りなければならないという儀式に皆、動揺しますが、クリスチャンは「そういう文化なんだよ」とダニーに言います。

 さらにホルガという共同体が行う奇妙な儀式を文化なんだ、と断定し倫理観が揺らいだ結果、次第にホルガに対しての違和感を持つことがなくなっていきます。

そして、壊れていたコミュニティ(大学生)と、全体主義で構成されているカルト宗教が交わるとき、大学院生たちに心情の変化が起こります。

それは自分たちのコミュニティから離れたとき、そのコミュニティは既に壊れてたと深層心理で気付いてしまい、"此処ではないどこかへ行きたい"、"この終わりのない日常から抜け出したい"という探究心がホルガのコミュニティへと更に導くわけです。

知っていたつもりの社会が壊れていたと知り、知らない世界へ、どんどんカオスに物語は展開していきます。

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〜日常から非日常へ〜

▪️マインド・コントロール

 新興宗教ではマインド・コントロールを使い、神秘体験を感じさせ入信させる技法があります。

まず、その神秘体験を感じさせる手段として日常的体験から非日常的体感を繰り返し行い、その振り幅を大きくすることで精神的に揺さぶられるように"フック"を仕掛けます。信者のたまごを変性意識状態にさせ、より一層こちら側へ引き込むようにするのです。そのフックを仕掛けたら最後、洗脳状態のためカルト宗教の思いのままに操られてしまいます。

フックを仕掛けるために変性意識状態になって貰うよう、訪れた外部者には一度、このコミュニティは安心だと認識させ、突然に見たことない景色を見せたり儀式に参加させたりする。

ミッドサマーでもそれは行われてました。

ホルガに来てすぐに、若い村人と話したり、なんてことないビデオをみんなで見ようよ!と誘われたり。

そんな日常から急に非日常体験をさせます。

ホルガから大学院生たちへ与えられる薬草や儀式。

次第に儀式を神秘体験だと、大学院生たちは倫理の範疇を超えて感じてしまうのですよ。

クスリを使ってマインド・コントロールするのもよくある手法です。感性を刺激させてイカれた行為をそれがクスリのせいなのに、神秘体験だと認識させるためです。もっと言えばホルガはクスリ系が溢れているので、クスリによって得られる刺激を修行の一環としているのかも、しれません。

クスリの幻覚=修行の成果とみなす。

 これはオウム真理教でも行われてました。ただ、人が時間という概念で生きている以上、時間をかけたクスリによる刺激もない修行と、クスリのソレは比べ物にならないのでクスリの刺激からの幻覚を宗教の修行の成果とするならばそれはイカサマです。

何故なら単純に神秘体験をするにあたって、長い時間をかけていないから。

人間が時間と空間の概念で生きている以上、クスリによる幻覚症状では長い時間とその空間から得られる体験には勝らないのです。

 

 しかしながら大学院生たちは薬草により、幻覚状態になり、それを神秘体験だ。こういう文化(宗教)だと断定してしまう。なので「この村イカれてんな」て思っても、もう出れない。

ましてや神秘体験をしながら深層心理の中で幾らこの村がおかしくても、「現に自分たちのコミュニティは壊れているが、この村のコミュニティは保たれ、共同体として成立し、輪となり全員が笑っている。つまりはここが求めていた共同体の地、文化人類学の探究心が満たされる地」と、同時に感じるのです。

簡単に言えば、"ここは楽園モード"になるんですよ。

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 このように日常と非日常体験の振り幅を大きくすることで精神的に正常な判断ができずにして、カルト側へ引き込まれていきます。

また、「僕、私だけが神秘体験を"この場所・あの人物によって体験できた"」というような盲信をもします。

 

新興宗教による神秘体験〜

▪️神秘体験と神秘現象の存在

 神秘体験というと、新興宗教に限らず、日常生活で体験したことがある人がいるかもしれません。(心霊現象等)

 ただ、実際にその神秘体験が真実であったかどうかはわからないのです。

心理学者のユングは「神秘体験の存在は神秘現象の存在を意味しない。」と述べました。

つまりは個人が神秘体験と思っても、それ自体が真実かどうか(存在するかしないか)の判断基準にはならないのです。

 経験論を交えると、人が体験したことはその人しか理解できない、が、その体験したことの事象そのものが本当に存在するのかはわからないのです。

もしかしたら神秘と思っていたものは、勘違いや偶然かもしれない。

しかしながら、勘違いでも体験したことはその人しか理解できません。

ここで重要なのが、その人しか経験論的に体験を理解できないにしても、その人がその神秘体験を真実と思ってしまうか、ある程度距離を取れるかです。

 "神秘体験イコール真実"と盲信してしまうと、どんどんカルト宗教にハマっていってしまいます。

あくまで神秘体験は真実ではないのです。

ホルガに訪れた大学院生たちはホルガの儀式に神秘性を見出し、それはその村での真実であり、文化人類学上も興味深いと考えてしまいます。

「ホルガを論文の題材にする」とクリスチャンが途中で言い出したのもそうですね。

完全にホルガという共同体から神秘体験を得て、それを信じてしまった。

 

〜刺激を求める人間〜

▪️日常の退屈さ

 同情の上で成り立つカップルのダニーとクリスチャン、さらに周りの知人。彼らはアメリカのごく普通の大学院生ですが、こういう若者たちが安直にカルトの地に踏み入れ、とんでもないことが起きてしまうというのは映画のジャンルとしてあります。

最近の映画では『グリーンインフェルノ』がそうでした。

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掘り出せばもっとありますがジャンルとして、いわゆる普通のなんてことない日常を過ごす人がその人にとって非日常の地に行き、事件に巻き込まれる物語はある訳ですが、何故そのような物語が多く存在するのでしょうか。

それは普通と思っていたことはある人にとって普通ではなかった、とも言えますが、そもそもそういう危険な地に行くこと自体が我々、人間の本質を写していると思うのです。

つまりは"終わらない日常を終わらせる"ために刺激を求める。

刺激を目的として危険な地、未開の地に行く。

ミッドサマーでも大学院生たちは"刺激"を求めて研究という名の元、ホルガに行きました。

さて、ここでさらに言えるのは我々人間はそもそも刺激を求める性質を持っているということです。

 

哲学者ニーチェは『悦ばしき知識』にて、以下のことを述べています。

 

「いま、幾百万のヨーロッパ人は退屈で死にそうになっている。彼らは何としてでも何かに苦しみたいという欲望を持っている。その理由は苦しみの中から自分が行動を起こすためのもっともらしい理由を引き出したいからだ。」

 

つまり、退屈で死にそうな人間は何か行動するための動機がないことの方がよっほど苦しく、それならばいっそのこと、"動機付けのための苦しみを得たい"ということです。

ここで退屈というキーワードが出てきますが、退屈について様々な哲学者たちが論じてきました。

ラッセルの退屈論では、「人々は何不自由ない生活をするが、何か満たされない、そして人は退屈から逃れようとし、今日と昨日を区別してくれるものを求める。今日と昨日を区別してくれるもの、それが刺激であり事件である。

事件が起きれば、終わりなき日常の反復は断ち切られるが、そうした事件はなかなか起きない。

そのために人々は事件を望むのだ。」

 

最終的にラッセルは退屈論をこう纏めます。

 

"ひとことで言えば、退屈の反対は快楽ではなく、興奮(刺激)である"

 

退屈しているとき、人は楽しくないと思っています。が、退屈から逃れるために興奮を求めるとき、人間は「興奮できれば何でもいい」と考え、そうなれば興奮できること自体も何だっていいとなり、それが不幸なことかどうかは二の次になるということです。

 人々は退屈から逃れるために興奮を求める。

社会学者ロジェカイヨワの『戦争論』でも「人間は刺激を常に求め、それにより陶酔し満悦する心を持ち日常を保つ。が故に危険をも顧みずに日常から離れた刺激=戦争に走ってしまう。これは刺激のある祭りを求める人間の性質と変わらない」と述べました。

 

まあ、要するに多くの哲学者たちも述べていますが、人間は何でもいいから日常の退屈から逃れたいし、何か行動したい、そのためには良いことか不幸なことか関係なく刺激を求めるし、その刺激によって明日生きれる糧を作るということですし、それが人間の本質ということです。

 

 ホルガに訪れる大学院生たちの心情も社会学の観点から見ればそのような刺激を求める人間の性質を写していると僕は思います。

興奮できれば何だっていいんですよ。人間は。

そういう愚かな人間の性質を写しているのも面白いなと、思いました。

だから大学院生たちは平気で訪れた村ではっちゃけますし、共同体や非日常にどんどん飲み込まれる。ヤバイと思っても、卒論の動機付けのために危険も厭わない。

刺激を得ることで卒論を書く動機になりますし、終わりなき日常から解き放たれる訳ですから。

ただ、そんな考えは甘く、カルト宗教の共同体の犠牲にされていくのですが、

 

〜物語のラスト〜

▪️ダニーの求める地

 ホルガではクイーンを選ぶ儀式をするのですが、その儀式にてダニーがクイーンに選ばれます。

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ダニーはたくさんの花に包まれ、一方のクリスチャンは動けないし、喋れない状態、つまりは"個を失くした象徴"とされます。

これはダニーにも言えることで、ダニーは喋れますが、花で囲まれることにより行動の制限がかけられます。物語のラストは2人とも立場は違えど個を失くし、全体主義のホルガという共同体に飲み込まれたことを現しています。

クリスチャンは村に新たな生命を宿すだけの道具として消費されますが、ホルガは元々、生まれた時に役割を与えられる習慣があります。これは劇中でも少しだけ語られます。

 生まれた時から役割を与える、ということはそもそもホルガに個人という考えはなく、共同体を維持するために個人が存在し、個の尊重はされません。

そのために、生まれたときに"守る"ことを役割にされた村人は大学院生の一人が聖なる木にしょんべんをしたときに一人だけ物凄く怒り悲しみます。

これは聖なる木が汚されたことが原因ですが、それよりも守る役割を与えられてた自分が止められなかったことに怒り悲しんでいたのでしょう。

そのために、周りの村人よりも断然に1人だけ怒っていました。

個を捨て、全体主義の共同体として機能するホルガ。

最終的にはダニー以外の部外者は犠牲になり、クリスチャンも焼かれてしまいます。

そして映画の最後のシーンは花に包まれたダニーの笑顔でした。

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何故、笑顔なのか?

それは、「やっと共同体にかえれた。私にとって、ここではないどこかはここだったんだ」と自覚したからでしょう。

喜怒哀楽、ホルガでは住民が共有します。

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悦びの儀式のときには共に悦び、悲しみの儀式では皆で悲しむ。それがホルガの共同体としての意識なのです。

思えば、これまでダニーの喜怒哀楽は時折、描かれましたがその都度殆どの人はダニーに寄り添ってくれませんでした。彼氏のクリスチャンも同情するのみ。

劇中で寄り添っていたのはホルガ出身で信者のペレです。

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 喜怒哀楽をみなで補填し合い、共有するホルガはダニーにとって安心の地になったのでしょう。

ただ、その一方で最後の儀式のときに、「痛くないから」といってその言葉に安心したものの、結局焼かれるときに叫んでいたホルガの住人。

あれも喜怒哀楽を共同体に意識させるための習慣なのでしょう。個人はホルガにないですから。その人が喜ぼうが悲しもうが関係ない。実際に楽しくても痛くても関係がない。だからホルガの人たちは皆、終始笑顔ですし、個人が痛いことは置いといて痛いということを皆で共有するのみ。無表情のときは皆が無表情なのです。

さらに、高齢になったから死なないといけないというのも理不尽すぎますが、高齢化により、個が役割を全うできなくなり、共同体の中で個人を助けないといけない状態になる。それは役割から更に組織を作る、組織を作ることは個人を尊重することに繋がりますから、ホルガはそれよりも、とりあえず儀式として死んでもらい、その生を共同体の中で共有しとこうということでしょう。

 共同体維持のために個人を排除するホルガ、恐ろしいですねえ。

これは映画ですが、カルト宗教にはホルガと似たような構図で組織される団体も多くあるでしょう。

 

カルト宗教にハマる過程を存分に描いている映画だと思うのでヤバイ団体にハマりそうなときはミッドサマーを思い出しましょう。

あぶないあぶない

 

はい、最後まで読んで頂きありがとうございました。

 

さてさて、

WEBマガジン フラスコ飯店にて『ミッドサマー』について私が執筆した記事もございますので下記リンク先からぜひご一読のほど、よろしくお願いします↓

https://frasco-htn.com/review/movie/3959/

 

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ps

エンディング曲ハマりますよね。

あの曲はフランキー・ヴァリの「太陽はもう輝かない」だそうです。

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それではまた