ぼんくら解体新書

俺は絶対サブカル男子ではないっ!

『百万円と苦虫女』を見た。

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こんばんは自称バームクーヘンです。

先日、僕は『百万円と苦虫女』をNetflixにて見ました。

全くこの映画について知らなくてですね、見終わってからの余韻と語りたくなる映画やと思ったので記事にしました。

 

※ネタバレ必須なのでまだ見てない方はご注意下さい。

 

まず、この映画はどんよりとしたムード、から始まり、ある転機(事件)のとき、大雨が降っていました。

最初の方はどう考えても画面が暗いわけですよ。

ようは雨から始まる物語なわけです。

主人公の彼女は事件を起こしてしまい、前科者になってしまう。

家族は不仲、友達は0、働いてもいない。

つまり、彼女には居場所がないわけです。物理的な場所もそうですが、心の拠り所もない。行くあてがないわけですよ。

そんな彼女は100万円を貯めれば違う場所に行き、様々な土地を点々とする生活を行うことを決意します。

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ー彼女の旅を続ける動機とはー

彼女の旅をする動機付けは「他人と密接に関わりたくない」「自分の居場所はない」です。

だから彼女は旅を続けるわけですが、それは''自分探しの旅''ではありません。それは後に彼女自身が否定します。

 

この映画は事件をきっかけに彼女の第2の物語が始まるわけですが、事件がなくても彼女の動機付けとなる要因は既に持っていた、もしくは事件がなかったらもしかしたら生きていく限り、ずっと持ち続けていたかもしれない感情です。

「他人と密接に関わらない」「何にも関わろうとしない」

などなどです。

その動機がラストには一回りして大きく違うものになる。そこがこの映画の面白いポイントではないでしょうか。

 

ー自分探しと、彼女の旅の違いー

さて、昔は無理矢理にでも他者との共有を強いられ、個人が持つ、その辺のモラトリアムは強制的に無くなっていました。

しかし、現代社会においてそのような強制的な何か(例えば地域の祭りなどの行事や家族間の繋がり)は誰しもが強制されるものでは無くなっていったわけです。だからこそ、彼女のような思考を、大多数の人が持つようになる。

僕もそうです。

 

それと並行して現代ではあるワードが生まれました。

それは''自分探し''です。

自分探しの旅に出ることは現実逃避にはなりますが、結局、何かした気になって終わってしまうことが多い。自己陶酔している事実を''自分探し''という自己陶酔によって隠してしまう訳です。

自分探しで悩み続けるよりも、旅をして自分とは何か考え続ける方が有意義な時間となる場合が多い。

 

悩むということは「どうしてこうなっちゃうんだろう」と思うことで、それは永遠にループしてしまう。

他方、考えるということは「こうならないためにこうしよう」と、帰結できる訳です。

 

例えば''自分探し''として、地方のボランティアに行ったとしましょう。

そこは日常とは環境が違う訳でたしかに視野が広がる気にはなるが、それは物理的な場所の移動をして非日常体験を仮にしただけに過ぎない。 

都会に帰ってきたとき、心の所在は空白のままです。

※勿論これはボランティア自体を否定している訳ではございません。参加するにあたっての動機の話です。

 

ボランティアだって自分が住んでる街でもできる。動機付けが如何に大事か、それが重要。

彼女の旅の動機付けは上記のようなものではなかった。

 

行くあてがない、だから彼女は歩き続けるのです。それが彼女の原動力となっている。

映画の中盤、大学生役の森山未來に旅を続ける理由を語ったとき、

「自分探しってやつですか?」と問われますが、彼女は否定します。

「むしろ探したくない」と。

ただその後で彼女は語ります。

「どこに行っても所在がない」

 

この場面はかなり重要なシーンであると思います。

自分探しではないが、何かを探している、その何かとは、所在=居場所な訳です。

ここである言葉を紹介します。

 

それは「トポス」です。

トポスとは自分の居場所、心の拠り所、所属という意味であり、トポスには〈存在根拠としての場所〉〈身体的なものとしての場所〉〈象徴的なものとしての場所〉という意味があります。近代はトポスが失われて路頭に迷ってしまう人々が大勢います。

彼女もそうであり、トポスがない訳です。

 

そして彼女は言います。

「探さなくたって自分は嫌でもここにいますから」

嫌でもここにいる。自分は嫌でも存在している。この言葉を聞いて、僕は哲学者デカルトの言葉を思い出しました。

それは、我思う、ゆえに我ありです。

この言葉の意味を要約すれば、全ての物事を疑って、どんなに疑っても疑えないものが残るなら、それは真理と言えるのではないか、そう考えたとき、今、疑っている自分の思考だけは排除できず、つまりはその思考をしている自分だけは確かに存在するという意味です。

そのため、「自分はなぜここにいるのか」と考える事、そのこと自体が自分の存在証明である訳です。

そうして、自己を根拠づけることによって、人間は歴史上、その自立を推し進めることができました。

 

話を戻すと彼女はまさにそういった意味で、自分という存在は嫌でも付いて来ることがわかっている。ただトポスがない、それが欲しい。だから歩く。

側から見ればそんな旅をしている彼女を''自分探しの旅''と、誤解する人もいるでしょう。

しかしながら彼女の思考と動機は違うのです。

 

自分は既に存在している。それはわかっている。が、所在=トポスが何処にもない。

どうしたら良いかわからない、何がなんだかわからない。

何処に行っても馴染めないし、周りの人間は鬱陶しい。

しかし、彼女は様々な旅を通じ、悩み続けるのではなく、自分なりに考え続けた結果、ラストシーン、彼女は自らの思考が一周し、人としてもう一段階上にいくのです。

そして空は晴天。

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対して、大学生役の森山未來しょうがないやり方で彼女のトポスを強制しようとして失敗しちゃう。でも、彼は彼女の人生という物語において非常に重要な役割を果たしました。

エセではあるが、ここにいてほしいと、強制しようとすることで、彼女の旅を続ける動機に拍車がかかり、思考が一周する要因となるのです。

彼女はこれまで、体験を通して他者と体感したことを共有することを拒み続けてきました。

しかし、彼との出会いそして別れによって気づく。

他人と密接に関わることは気付きもあるし、有意義なことであり、それを拒み続けることは、''虚しさだけが募るばかり''だと。

ラストは切ないけれど、人として大きく成長する物語です。

 

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考え続けた結果、思考が一周し、原点に帰ってきた彼女。

最後の台詞「くるわけないか」が、深く、見ている側に刺さります。

 

一周して成長した彼女、そして''今の段階''ではどうやっても追いつけない、追いつかない大学生役の森山未來

いずれは大学生役の森山未來も思考が成熟し、彼女と同じくらい寛大に、人として大きくなれたとき、もう一度出会えばまた運命は変わるでしょう。

ただ、今の段階では差ができてしまった。

 

奇しくも空はこれまでにない程の晴天。

自転車に乗っても追いつけない、歩道橋の上と下。彼女は重たいキャリーケース、彼はほぼ手ぶら。

全てが描写に詰まっています。

 

切ないが、この地点では仕方がない。

ただし、いずれは大学生も成長し、ていうか心理学専攻ならそのへん敏感でしょうし人としての思考が成熟するのも早いはず!

いつか出会うはず!信じよう!

 

くううう、やっぱりラストは切ないけれど仕方がないのよなあ。

歴然と差ができてしまってる訳ですから。

 

 

フレームの外の将来に期待しましょう。

 

おわり

 

 

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