ぼんくら解体新書

俺は絶対サブカル男子ではないっ!

『ボクたちはみんな大人になれなかった』に感じた疑問

自称バームクーヘンです。

『ボクたちはみんな大人になれなかった』を見ていろいろ考えることがあったので書きます。

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普通とは

劇中、20代の頃のかおり(役:伊藤沙莉)は「普通」という言葉をよく使いますし、その言葉はこの映画のキーワードになっていると思います。

「なんか普通だね」「それって普通じゃない?」かおりは普通を毛嫌いするような言葉を20代前半の頃の佐藤(役:森山未來)に言います。

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かおりの言う普通とは、すごく簡略化すると、趣味では流行りの音楽を聴いて、映画を見て、〇〇歳で結婚してその後子供ができて、マイカー、マイホーム買って何気ない日常を過ごすという意味でしょう。

 

さて、46歳になった佐藤はFacebookを見るといかにも普通な生活を送って幸せそうにしているかおりを見つけます。それを見て「ほんと、普通だね」と言います。

佐藤は彼女のことが忘れられず、引きずっています。それから過去を振り返る物語が始まる構成です。

僕はこの映画を見て、過去を振り返っても良いけれども過去を振り返るだけじゃなんにもうまねえんだなと思いました。過去を振り返って成長する、とかなら気持ちよく見れたと思います。ていうかそうじゃないと2時間も何を見ているんだという話なんですよ。

乱暴に言うと映画と対話したいのに、作者のオナニーを見ている感じでした。

 

佐藤は引きずり続けるでしょう。

なぜなら佐藤は過去を見ているから。今のかおりではなく、「普通」が嫌と言っていた過去のかおりに捉われているのです。そしてそれに共鳴して欲しいからこの映画、この物語を書いた。

かおりの20数年間にフューチャーした物語なら特別な何かを享受できたでしょう。なぜならかおりは成長しているから。しかし、過去に捉われて感傷的になった男の話を2時間見ても普通なのですよ。物語がちょー普通なのです。

だから僕が思うに役者を森山未來にしたり、エモい感じを存分に演出したり、今の30代40代が刺さる音楽や文化を物語にむりくり組み込んだのやと思います。

 

音楽で釣る手法

前回記事の『花束みたいな恋をした』でも書いたのですが、ある特定の層にささるようなカルチャーを物語に入れることでその映画が良いと勘違いさせるやり方が最近多いと思います。

これは映画だけじゃなくてたとえばMVとかでもそう。好きな映画のポスターが作品に登場していたら反応してしまう、これは誰でもあると思います。

それが物語に直結していたら良いですよ、たとえば主人公がその映画を見てから頑張るとか。ではなく、パラパラとある層が刺さるカルチャーを出してくるやり方が最近多いと思います。そうすると勘違いしてしまってそれをエモーイと思ってしまう。そんな演出めっちゃ安易じゃないですかね。

ボクたちは〜は過去を振り返る物語なので、当時のカルチャーを通して過去を振り返るという点ではその演出は当時の音楽を流すことで演出されていますが、ここで感じた問題が1つありました。

 

思想のない演出

過去に流行ったカルチャーを垂れ流すことで、観客は過去を振り返る作業を簡単に行えます。ただ、そこには「懐かしさ」のみで現在と過去を対比するにあたって過去は過去で切り離され、現在は現在であるだけのように感じました。その演出は「懐かしさ」を演出したいだけでもっと深い思想、気持ちがないように思えました。

僕が見た限りでは、カルチャーは映しても登場人物が何故それを好んだかのような背景を演出していないように思えました。だから、音楽やその他の演出、過去と現在が繰り返されるのみで、繋がりがなく、ぶつ切り感覚に思えた。

佐藤とかおりの恋愛事情と、2人が好きなものは別の次元の話ですからね。だから背景を見せなければならないのに2人が当時背負っていた背景を見せず、当時のカルチャーだけであの頃を語ろうとする。それは懐かしさを消費しているだけですよ。

作品内ではワードやファッションのみだけ見せて、いとも簡単に消費されてしまう。そこにリアリズム、物語性は感じません。ただ挿入歌として、ただファッションとして、ただワードとして出てくるだけです。

じゃあなんでそういうあの頃の文化をパラパラと出してくるのか。それはそれらをなくすと単なるありきたりな恋愛映画になるからです。

かおりの言う、普通のラブコメになるからです。

 

疑問

この映画を見て1番疑問に感じたことは、今のかおりのいわば普通の人生を少し否定的に描いている点です。普通の人生を歩んだかおりに「普通だね」という男、佐藤。

過去に縛られて普通じゃないように振る舞った結果、思ってたような大人になれなかった46歳の男、佐藤。

お前、感傷してるだけやん!!

 

まあ感傷するのは良いですよ。全然良いです。だけども、それをしてなにを受け止めれば良いの?ボクたちは。

って思ってしまいました。かおりは変わりました。しかしその変わった姿、成長した姿は写真しか写らず、今のかおりの気持ちは見せてくれないのです。佐藤中心で世界はまわっているのですよ。「自分=世界」だと思ってるから感傷しすぎるんじゃねえの!

僕が思うに、世界は変えれないし、日常はいつだってクソなんですよ。だから個人の領域で日常を密にするしかないのです。普通が嫌だって言ったって非日常ばっかりじゃそれが日常になっちゃうし。そして、感傷するにしても、過去を振り返ってあの頃のあの娘に恋をし続けるにしても、あのときの刹那的な永遠性を演出できなかった点が本作の最大の問題でしょう。

かおりとの出会いはまさに刹那的だけれども、それを演出できていない。だから僕はのれなかったなあ。

46歳になったときにあんな感傷したくないよ。少しでも希望を見せてくれよ。なんかああいう作品が多くていかにも、もうこの国は終わりって感じやん。過去を振り返る、取り戻すってカルチャーでも政治でもそんな傾向でさ、やんなっちゃうよ。

大人は大人で希望を見せてくれよなって思います。

 

おわり

 

 

 

ps

過去を振り返るみたいなことでいうと好きな映画、詩があるので紹介しときます。

映画『草原の輝き』です。

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その中で出てくるワーズワースの詩を最後に、

 

『Splendor in the Grass (草原の輝き)』

Though nothing can bring back the hour of splendor in the grass, of glory in the flower,

we will grieve not.
Rather find strength in what remains behind.

 

もう取り戻すことはできない 草原が輝いていたあの頃を 花が満開だったあの頃を それでも嘆くのは止めよう むしろ力を見つけよう、存続するものの中に。