こんばんは自称バームクーヘンです。
大森靖子さんの著書『超歌手』が6月7日に刊行されました。今回は『超歌手』を読んだ感想を書きたいと思います。
前置きしますが、まだ最後まで読んだことない方はネタバレというか、どういうこと書いてるのか知ることになっちゃうかもしれないです。
あと、これは僕の個人的な感想なので読んで何を思ってもいいです。
ではでは...
(って、すべて書いてから思いましたが本の感想というより本を読んで、さらに僕がテーマ別に感じたことを書いてる、みたいになってます)
まず、
「美しく生きろ、さもなければ美しい死などない」p10
大森さんはそう語りました。「美しく生きろ、さもなければ美しい死などない」
''美''とは何でしょうか。美しく生きることとは。
それはいうならば、他人のことをできる限り気にしないで自分をさらけ出す、むきだして生きることやと思います。
それは「他人に優しく接する」「徳を積む事を行う」など、形式の話ではないです。
そのような行動は結局、損得勘定になってしまう。
そうではなく、単に「自分を生きる」
大森靖子さんのいう''美''の概念は(僕の解釈では)形式の話ではなく、中身、つまり自分自身が生きていると感じれるよう生きれているか、そしてそれを自分なりに理解しているか、それが生としての''美''の概念だと思います。
''美''、次に''可愛い''とは何でしょうか。
「可愛い」が指す言葉の範囲は歴史的に広くなってきています。
極論、例えば町の普通のおじさんでも、なんてことない食べものでも「可愛い」と言われる時代です。
要は「自分に何もしてこなであろう対象のもの」はイコール、「可愛い」と解釈されます。
ただ、その中でもあえて女性に限定されて言われる「可愛い」について言うと、僕は何回かツイッターでも言うてますが、想像的なことやと思います。
可愛いの概念について、可愛いって思うのは視覚で認知できる要素よりも、もっと想像的な、例えばデートある日とか、普段のときに「今日はこんな服にしよう」とか「もっと可愛くなろう」みたいな、女性がそういうことを考えてる瞬間、それ自体が可愛いんです。
見た目、容姿に関してでも「可愛くなりたい」と考えること自体がもはや可愛いんです。
しかも女性はどんどん可愛くなっていきます。
可愛いは、無敵ですね。
「ダメダメなとこも可愛い」と大森さんは書いてましたね、ほんとその通りやと思います。
全てが可愛い。
続いて、
「現代人は流動的」
大森さんはそのようなことを書いていました。
それには激しく同意します。
バズれば何だっていい、お気に入りの数イコール承認の数。そんな時代だと僕も思います。
自分の好きなものについても流動的な時代。一瞬の消費だらけ。
例えば「好きなものに夢中になって何年も同じ曲が好きな人」と、「なんとなく好きで一瞬で好きを消費する人」では音楽が好きという形式は同じでも、時間の観念が人間に存在する以上、それによって得るものが全く違う訳です。
長い年月を経て得るものというのは必ず存在します。
好きが流動的だと、いわゆる
「なんでもいい→誰でもいい」となるんですよ。好きなものを好きな理由が「なんでもいいから」なんてなりたくないですよね。
そして、バズれば人気の証?
一瞬のお気に入り、それで例えば人気だと感じることはSNSというシステムの奴隷と化しているだけだと思います。
そんな一瞬の好きを繰り返すと、次第に「誰でもいい」という感情が強くなります。
「誰でもいい」なんて、言われたくないし言いたくないです。
その人はその人しか存在しない、一定の条件(容姿・学歴・職業)さえあれば何でもいいって、なんて哀しいんでしょうか。それは結局一瞬心の穴を埋めるだけで、ぐるぐるその「誰でもいい関係」を繰り返してしまうと思います。
その人、人間を愛せよと思います。
「若いうちにカネを払ってホンモノを見た方がいい」p13
生きたければホンモノを見よ、ホンモノとは何でしょう。先程述べた「誰でもいい」ものじゃない対象のものです。
大森さんは人間本来あるはずの''美''を信じているのだと思います。
それも、「誰でもいい関係」で繋がれた団体によってではなく、個人が個人として意識しながらも、意識的に共同体に属するという意味です。
そしてそれは
「全員同じになってはならない」p25
とリンクしていると思います。
フェス、ライブでの盛り上がり、おきまりのパターン、重要なのは形式ではないんですよ。
舞台の歌い手、ファンそれぞれ、個人がどうなのかが重要なのです。おきまりのパターンで一体化しても、それは錯覚。
ファンそれぞれと演者、個人が形式ではない、音楽の力によって「とにかく凄い」と感じれることが大事だと思いますね。
音楽でも映画でも「なんかわからんけどこれは凄い」と感じた人がいると思います。それがホンモノの芸術、作品だと思います。
大森靖子さんはこの著書でいくつかフェミニズムのこと、男女差別のことを述べています。
「夫婦同姓」についても少し語られますが、大森さんは言っちゃえば「夫婦同姓」制度を変えるのはめんどくさいんじゃない?としてましたが、それはあながち間違っていないと思います。
まず、夫婦同姓を法律で義務付けている国は世界的に見て日本のみです。
世界の国々では90年代以降、夫婦同姓を義務付けていた国は夫婦別姓か、選択的夫婦別姓(別姓でも同姓でもどっちでもいい制度)にシフトしています。
これだけでもどれだけ日本が遅れているかわかりますよね。
それをたまに「外は外、うちはうち」論で片付ける人がいますが、それは思考の放棄だと思いますね。
なぜ、世界の標準が夫婦別姓になっていることを考えないのでしょうか。
それに「法律的には嫁か夫、どちらかの氏にすればいいのだからそこに男女差別はない」と語るオトコもいます。
いや、現在結婚している夫婦の90%は夫の氏にしているわけです。法律の文言が全てじゃないんですよ、ほとんどの夫婦が男側の氏にしている。それが当然だという雰囲気もある。
まあ何故自然とそうなるかって、男女差別が存在している社会の歴史の上で、現行の社会が作られてきたので、知らぬうちにバランスが悪くなっていることに気付かないわけですよ。
さらに、2014年の「夫婦同姓制度が違憲かどうかの裁判」では結果、違憲ではないとされました。
最高裁判事の見解を見ましたが、「法律の文言的には男女どちらかと限られてないので違憲とはできない、国民の議論が先である」みたいな意見が多数ありました。
なんじゃそれ!!!!
日本は男女差別が残りまくっているし、無意識に差別している男が多く、世代間格差はありますが古い価値観を引きずり、それが通用すると思っているオトコもいます。
やんなっちゃうよ。
「夫がひたすらに働き、家事は嫁に任す」
これが経済を回す上で効率的だとされた歴史があったわけで、しかもそのときは男の方が有利な立場にあったので、つまり、俺たちは働くからめんどくさいことは任せるわ〜みたいな感じですよ。
そういう男の空気、空間で作られた部分はまだまだあります。そのフィールドをぶっ壊す。
音楽の場で、大森靖子さんはそういう男の空気感で作られてきたという前提を破壊するエネルギーがある歌手だと思います。いや、それが超歌手なわけですよ。
続いて、女芸人について語られます。
芸人の世界も男の空気で作られてきた歴史があります。松っちゃんも過去には芸人という囲いにおいて女性蔑視的な意見を述べてますが、あえて言いませんがその見解を、とある女性芸人によって、(しかも笑いによって)破壊されました。しかもダウンタウンが仕切るフィールドで。
ロックは破壊的創生だと思いますが、お笑いもそうです。ダウンタウンは間接的に過去のフィールドを破壊し、とある女性芸人と次なるお笑いのステージを組み立てた。
カッコイイ〜〜。
続いて、「メンヘラ」について語られます。
僕は「メンヘラ」とか「草食系男子」とか、人を一つのワードで括る言葉が大っ嫌いです。
その人を決めつけて、他者にレッテル貼りする行為は、その行為を行った人が自分はそうではないと認識したいがために行われることです。
人は一面だけなわけがない。
いろんな顔があり、姿があるのに「メンヘラ」とかいうクソみたいなワードでその人を囲うわけです。
なので誰かに「メンヘラ」とレッテル貼られても、自分でそう思ってても大丈夫ですよ。
大森さんの『超歌手』では大森さんの考えがむき出しで詰まりまくってるもので、尚且つ読みやすくてとても良かったです。
大森靖子さんは変化し続ける、それがわかりました。
この本『超歌手』は、この時代のある瞬間、個人に訪れるある出来事を大森靖子というひとりの人間を通して、鏡のように写してくれる本だと思いました。
大森さんが現代に生きるすべての人の日常のカケラを集めて、自分なりにデコレーションした感じですかね、それがかっこいいしかわいいんですよ。
ホンモノとは何か、消費社会について語られることがありましたが、そうすると「リアル」とは何でしょうか。
好きが消費され、好きな人も消費される。それの繰り返しに陥っている現代社会。
例えばインターネットは簡単に繋がれるが故に誰でもいい、何でもいい、一瞬のお気に入り、のループに人はハマってしまいます。
しかし、簡単に近づくことができるため、簡単に離れることもできる。関係性の希薄に繋がるわけです。
そうすると、もっと「誰でもいい感」が加速する。
そんなインターネットの要素を知った上で、リアルを生きる、日常を歩む、そのような行為は何もなかった、つまりインターネットを通してコミュニケーションした経験がない状態で日常を生きることとはわけが違う。
インターネットによる関係性の希薄や、「誰でもいい感」など、そんな虚無さを経験しているからこそ、同じ日常を歩む行為でも中身が違うわけです。意味合いが異なるわけですよ。
虚無さを知ったうえでそれを乗り越えれば一段高いステージに立てるわけです。
僕が読んだ限り、『超歌手』は現代の虚無さが溢れる日常を生きるしかない、それを経験するしかなかった若者たちに向けて、虚無さをもむきだして、日常を生きる。そのためのヒントが散りばめられた本だと思いました。
最後に、印象に残った大森さんの言葉をいくつか挙げます。
「壊れたっていい、壊れそうなのがずっと続くよりもマシだから」
「クズのまま光るんだよ」
大森靖子さん、いいですねえ。
おわり。