こんばんは自称バームクーヘンです。
今回は映画『ジョーカー』について書きたいと思います。
※この記事はネタバレを含みます。
・裏切りと言う名の、喜劇。
舞台はゴッサムシティ。
ゴッサムシティでは貧富の差が拡大し、清掃員のストライキが起こり、街はゴミだらけ。
そしてネズミが増殖。
街は荒れ果て、一部の金持ち以外は誰しもが破綻しかけ。
そんなゴッサムシティにて、主人公アーサーはコメディアンを目指しながら、家では母の介護をしています。
アーサー自身も精神的疾患を抱えていますが、財政悪化により薬を断たれ、カウンセリングも打ち切られます。
冒頭のピエロのメイクをするシーンでは片目から涙のように目のメイクが溢れ落ちるんですよ。
これが泣いているのか、何かを想像した笑い泣きなのか。
バイト終わりの家路の階段では足取りが重く、登ることが困難なように思えます。
街では依然としてゴミが散乱するも、金持ち達はそのまんまで何も変わらない、終わりなき日常がアーサーの生活を蝕んでいきます。
社会的に孤立し、誰からも存在価値を見出してもらえない。
バスに乗れば避けられ、バイトはクビになり、母も誇大妄想を持ち、現実を見ようとはしません。
まさに究極の悲劇。
社会システムが機能しない社会で仲間もいない現実。そしてアーサーには特別、共同体に属すということもありません。
そしてアーサーは「この人生よりも高価な死を」と望み、それはいかに人生に絶望しているかがわかります。
しかしながらそれでも人を笑わせたい。
アーサーはギリギリのところで立っているわけです。
アーサーは自宅にて、『マレー・フランクリンショー』という司会者マレー(役ロバートデニーロ)の番組を純粋な笑顔で見ます。
アーサーは父親不在で、誰かに父性を求めているわけですよ。何にもなれない自分を引っ張って欲しい。
マレーに対してある種、アーサーは父を幻想しているように思えます。
さて、『マレー・フランクリンショー』ですが、かつてロバートデニーロは『キング・オブ・コメディ』という映画に出演していました。
同作品はコメディアンになりたい1人の男が人気番組の司会者を誘拐して「番組に出してくれ!」と懇願するような内容(結末はネタバレなので言えません)です。
そのような映画でコメディアンになりたかった役をしていたロバートデニーロが、本作ジョーカーでマジに人気司会者をしている。
こういうトリックも『ジョーカー』には随所に発見できます。
(キャッチコピーの「どん底で終わるよりも一晩だけでもキングになりたい」はジョーカーの世界観とリンクしますね)
『キング・オブ・コメディ』はロバートデニーロ主演、監督マーティンスコセッシですが、同じくデニーロ主演、監督スコセッシの『タクシードライバー』にも『ジョーカー』は多大なる影響を受けています。
『タクシードライバー』はニューヨークに住むトラヴィス(役ロバートデニーロ)が、社会に絶望して政治家を暗殺しようとするも失敗し、その足で売春宿に乗り込み、経営者をぶちのめして世間から英雄視される、が、本人の虚無感は消えておらずまた終わりなき日常を生きなければならない、という物語です。
作中でトラヴィスは「こんな社会は雨とともに流れ落ちればいいんだ」と絶望した台詞を言います。
『ジョーカー』では格好もそうですが、一人で部屋で銃を持ってかまえたりするところや、部屋のデザインなど、かなり『タクシードライバー』の影響を受けていることがわかります。
(ジョーカーが劇中でするポーズはこれのオマージュですね)
実際、『ジョーカー』のドットフィリップス監督は数々の作品のオマージュを行い、自身としては1970年代のような映画を撮りたいと思っていたそうです。
それは『ジョーカー』が始まる際のワーナーのロゴからわかります。
最近では配給会社のロゴから映画の世界観で遊ぶ手法が多いように感じます。
ワーナーの一般的ロゴ↓
『ジョーカー』でのワーナーのロゴ↓
これは1970年代にワーナーが使用していたものです。1970年代のハリウッドは全体的に暗い映画が多く、また、どちらが善でどちらが悪かはっきりしない作品も多くありました。
ドットフィリップスは1970年代のような暗いけれど、だからこそ考えれる作品を作りたかったのではないでしょうか。
さて、最近では白黒はっきりしていたり、悪役は悪でしかない、ヒーローはヒーローでしかなかったりする物語が多いわけですが、現実はそんなんじゃいかない訳ですよ。
勿論、現実がそうじゃないからこそ、虚構の世界で白黒はっきりした物語が成立する訳ですし、面白い作品も多く存在します。
しかしながら、ジョーカーは虚構を極限まで現実社会にフォーカスし、観客を揺さぶるのです。
善悪二元論が台頭する現代にて、遥か離れたところから「そもそも善か悪なんて判断できるの?」とジョーカーは説きます。
無論、歴代ジョーカーもそうでした。
ノーランの『ダークナイト』も一般人に人を殺させようとしたり、倫理観を確かめたりする訳です。
(ダークナイトより)
ジョーカーは我々を試しているんですよ。
社会が周らず混沌としたゴッサムシティに偶発的に生まれるアーサーという名のジョーカー。
ゴッサムシティの政治家は庶民に対して大人しく労働せよ、治安維持せよ、と個々を機械の一部のように扱われます。
人間が機械、歯車の一部になるんですよ。
気付いてしまうアーサー。
「狂ってるのはどっちだ?」
それはアーサーによる、"社会に対しての裏切りと言う名のカウンター"です。
電車にて、女性にいたずらをする非道なサラリーマン3人を撃ってから一線を越えたアーサー。
それから徐々に、庶民はピエロメイクした殺人鬼(アーサー)を英雄にしていきます。
アーサーはそれを見て、やっと存在価値を見いだせた。
アーサーは父親不在だと前述しましたが、トーマス・ウェインが父でないことがわかり、司会者マレーにも裏切られますが、偶然にもデモをする庶民たちがアーサーの父となり、存在価値を見出してくれるのです。これまで社会はクソだし周りもクソで存在価値なんてないも同然だと思っていたが、声なき市民が声をあげたとき実は自分と同じような人がいて、自分も声なき市民だったのだと気付くのです。
そしてその大衆社会に存在価値を見出し、そこに父性を投影し、声なき市民という存在からはひとり、離脱するのです。
これが、いわば父親からの卒業。
アーサーは生まれ変わっていきます。
アーサーはゴッサムシティの影のヒーローとされますが、火付け役?ばかばかしいという風に軽く言い放つ。
これは卒業したが故に次のステージにアーサーは移行したのです。
・ゴッサムシティの影のヒーローへ
警察に地下鉄で殺人容疑をしたのではないかと疑われるアーサーですが、そんなときマレーショーのスタッフから電話がきます。
「木曜日に出演してくれませんか?」
憧れだったマレーに笑い者にされ、裏切られるも、出演オファーがきたアーサー。
向かう道中、これまで足取り重く登っていく階段を踊りながら降りるんですよ。
衣装も次第に変わってきてかっこいい。
このシーンはジョーカーの降臨と思ってます。
社会に見捨てられ、裏切られたアーサーは逆説的に「もともと社会はデタラメ」と、解釈するんですよ。
法律よりも先に人間がいるんだから、常識よりも先に人間が生まれているんだから、倫理観より先に人間が存在しているんだから、社会が成り立っているのは"皆が秩序を保つから自分も秩序を保つ"ことが前提。
"もともと社会は狂ってるんだよ"、とジョーカーは体現します。
マレーショーをのっとり、生放送での事件、ゴッサムシティにカオスが蔓延します。
警察に連行されるも、パトカーで不気味に笑うジョーカーはダークナイトのヒース版ジョーカーのパトカー箱乗り運転オマージュですね。
ダークナイトの、このときのジョーカーは確実にゴッサムシティにカオスを生み出してバットマンに勝ってますからね。凄いシーンですよ。
アーサーのジョーカーはパトカーに連行される際に民衆に助けられるも、気絶して意識を失います。
その後、目覚めたジョーカーは復活。
一度死んだが復活、これはジーザスキリストですね。
カオスで溢れたゴッサムシティの路上にて、アーサージョーカーは両手を広げ、十字架のポーズを取るんですよ。
アーサーの出自も曖昧なあたり、ジョーカーはこの世界に秩序や倫理観を問う、ゴッドです。
光の神というよりも、悪魔、サタンて感じですが。
これがまたかっこいいのなんの。
さて、神がいれば世に悪いことは起こらないという言説がありますが、片や神は無限の存在であり有限の人間たちには理解できないことがあり、悪が存在するのも善を保つためだから神は世に悪を放つという解釈も存在します。
であるならば、ゴッサムシティのジョーカーは神からの試練を与える使者か、またはサタンによる悪戯なのか、これまた考えさせられます。
ゴッサムシティにジョーカーが生まれたからこそ、もしかしたら今後、ゴッサムシティに英雄バットマンが生まれるかもしれない。
そういう色んな想像ができます。
どこからが妄想で現実はどこまでなのか、まったくわからない訳ですよ。
もしかしたら全部妄想かもしれませんし、アーサーが社会に絶望して自宅の冷蔵庫に入ったときに死んでるかもしれない。
もしくは、冒頭でギャングに追いかけられたときや中盤に警察に追われたときに倒れて気絶したときに見た夢落ち、かもしれない。
全然わからないんですよ、善悪も、虚構か現実かも。
だけれども物語として、アーサーに感情移入してしまうんです。
マレーショーでの、ジョーカーのキレキレの狂気さ、そしてテレビカメラを捕まえ「that's life!」と言うかんじ、まあその前にテレビ中継は切断されますが、あっこからのジョーカーの物語の風呂敷の広げかたがえげつないんです。
そして民衆はジョーカーをゴッサムシティの闇の英雄と称えます。
しかしながら、ジョーカーはそんなことどうでもいい。
民衆に称えられようが関係ない。
全てはジョークですから。
その証拠に、見ている側を、そして、ゴッサムシティにいるジョーカーを讃える民衆に向けて思っているようなことを口にします。
下記に記します。
ラスト付近、アーサーの台詞です。
アーサー「ジョークを思いついたんだ」
カウンセラー「どんなジョーク?」
アーサー「理解できないさ」
最後に見ている側を突き放すんです。
この映画、アーサーのことは理解できないよ。と、
「考えてみろよ」とジョーカーに言われてるような気分です。
いやあ面白い。
そして、仮面を被ったピエロに過ぎないと言い放ったトーマス・ウェイン、ピエロメイクじゃなくてもジョーカーという概念は不変な訳ですよアーサーにとって。
だからトーマス・ウェインに裏切られピエロだとレッテル貼られたのを破壊したかった。
だから、カウンセラーの人を殺め、血がついた靴で逃げるのです。
廊下を走り右往左往している姿はまるで喜劇。
一貫して悪意あるジョークをしてるんですよね、この映画。
とても良かったです。
是非見てほしいです。
ps.
僕はジョーカーを見ていて、色んな映画を思い出しましたが、その一つは『ファイトクラブ』です。
『ジョーカー』はアメリカでは危険思想だ!みたいな理由で批判している批評家もいるそうで、それは『ファイトクラブ』でもおんなじように批判した映画批評家がいるようです。
いやいやいや、色んな意見があっていいけれどこの映画そういうことなの?て思っちゃいますね。
それよりももっと伝えたいことあるやん!ていう。
『ジョーカー』が影響を受けている『キング・オブ・コメディ』の主人公の名前はルパート、『タクシードライバー』の主人公の名前はトラヴィスです。
『ファイトクラブ』では主人公に名前がなく、偽りの名を名乗っているのですが、あるシーンのセリフで主人公が「あなたはコーネリアス?ルパート?トラヴィス?一体だれなの?」と聞かれるシーンがあります。
『ファイトクラブ』もアメリカの都市部で何者にもなれない1人の男が地下組織を作り、都市を混乱させたり、いたずらをしまくる内容ですが、そのあたりもリンクしますし、『ファイトクラブ』の主人公の部屋の冷蔵庫に何もなかったり、生活する上での虚無感は『ジョーカー』のアーサーのポストには何も投函されてないことともリンクしますね。
アーサーが脳内彼女だったってオチもね、
『ジョーカー』のパンフレットでドット・フィリップス監督が『ファイトクラブ』の名前を出していたので、やはり多少意識はしていたでしょうし、同じ系譜にある映画になると思います。
そして、映画『ジョーカー』は『タクシードライバー』や『キング・オブ・コメディ』、そして『ファイトクラブ』のように、のちのち引用されたり、これから生まれる作品たちに多大なる影響を与える映画だと思います。
映画って面白いなあ
おわり
読んで頂き、ありがとうございます。
最後に
「that's life」