こんばんは自称バームクーヘンです。
今年の2月くらいから、新型コロナウイルスについてのニュースが多くなり、だんだんとニュース番組、ワイドショーなどで殆どの時間、コロナに関する報道ばかりになった。
そして、緊急事態宣言が発令され、街は閑散とした。
徐々に街に人は出てきたけれども、5月24日時点で北海道、東京、神奈川、埼玉、千葉の5都道県はまだ解除されていない。
非日常が日常化して、ステイホームやロックダウン、聴き慣れない言葉がよく使われるようになった。
習慣も変わった。
マスクして当然みたいなね。
ちっさい話やと、公共のトイレはジェットタオルが使用禁止になった。
いや、アレってめっちゃ不衛生やったのね。
コロナが収束してからもたぶん、ジェットタオルはしばらく使われないだろう。
不衛生バッテンてされたのだから。
コロナ以前以後で目線や意識は変わってしまう。
ジェットタオルは不衛生て全員が思うし、マスクしていない人がいたら「???」て感じる人もいるやろう。
こんな状況やからこそ、あまり感じたことのないストレスが皆に溜まっている気がするのも確かで、特にSNSでの人が発する言葉の強さが明らかに前よりも強くなっている気がする。
ま、テレビのコメンテーターもそう。
混乱したとき、大衆は詭弁者に引っ張られる。
強くて分かりやすい言葉に人は共感する。
そういう心理を誰でも持っている。
コロナのニュースと共にまあ、震災のときもそうやったが政府は特に非難される。
実際、補償などの対策を十分にしていないと個人的に思うし、スピードも遅い。
僕は大阪在住ですけど、まだマスクは来ていないしね。(5月24日時点)
で、政府の無能な感じが際立つと、反政府の人たちも首相と思想が似ている人も、要するに右も左もどっちも言葉が強くなる。
最近のTwitterのハッシュタグはデモのプラカードみたいになってきていて、なんだか気分が重くなる。
これは政治に口を出すことに対して非難しているわけでもなく、ノンポリな訳ではなく、例えとして不快に思う人がいるかもしれないけれど、選挙カーや街宣車が自分の家の前でデカい音で演説している感じ。
自分独自で政治は考えるし言うときは言うよって思う。だから、検察庁法改正のハッシュタグに関してはツイートした。
でも、ちょっと回数が多すぎるというか、社会問題に関して何でもかんでもハッシュタグでトレンドに挙がっているとおいおい、てなる。
大衆の心理、大きく人が煽動される様子。
スペインの哲学者、オルテガの著書『大衆の反逆』の言葉を思い出した。
「大衆とは自分が皆と同じだと感じることに苦痛を覚えず、他人と自分が同じであると感じて、かえって良い気持ちになる。そのような人々全部である。さらに、自分が多数派と感じることに慢心し、多数こそが正しさだと考える慢心した坊ちゃんである」
「大衆は支配者である少数派を吸収し廃棄して、その人々の占めていた場所を占拠したのである。」
「野蛮な時代は、人間が分散する時代であり、たがいに分離し敵意をもつ小集団が、はびこる時代である。」
『大衆の反逆』より抜粋
要するに、数が多い方が真実であるとすることに危惧している訳よ。オルテガは。
数が多ければそれが正しいのかって言われると必ずしもそうじゃないと思うし、でも同時に声をあげることも大事やと思う。
Twitterで「〇〇の抗議に何百万RT!!いいぞ!もっとやれ!」みたいな言葉は違和感を覚える。
右も左も数の競い合いしているの。
そやし、右も左も排他的になっている気がする。
進む、分断。
違う思想の人は排除しようとする社会。
社会問題は簡単な言葉で片付けられないからこそ、逆に、言語の単純化が進んでいるように思う。
長々と書けないのでとりあえず単純でトゲのある言葉で相手を罵ったり、レッテル貼りしたりとかね。
例えばそれは1人の人間を「パヨク」「ネトウヨ」と認定するようなこと。
そんな3、4文字で言われる対象の人の考えが全て左翼的、もしくは右翼的であるはずがないし、人は考えることをやめて、物事を単純化しているだけじゃないの?と思う。
言葉の単純化、それは簡単にできるし、しかも言葉にトゲを持たせる。
大衆が大きく動くとき、それでも自分の足で立っていたい。
不安を煽ることは誰だってできるもの。
散々言うけれども、だからといって政治に口を出すのが問題といっているわけでもない。
それはそれで大事やけれども、もっと他者を認める前提で話し合いできればいいのにって思う。
直近やとSNSで「#さよなら〇〇」と、政治家に対してのハッシュタグが何万もあった。
これは首相も、野党の議員も〇〇に当てはまるが、「さよなら」て言葉と同時に名前を出してそれが広がる大衆心理の怖さ、僕はこれを覚えておく。
この時代にこんなことが起きている。
考えは違えど、相手を理解する。
そんな気概は現代にあるの?
さて、僕は今年の2月に映画『三島由紀夫vs東大全共闘』を見た。
この映画は東大のキャンパスで行われた三島由紀夫と、全共闘との討論を描いたドキュメンタリー作品。
楯の会数人と東大に向かう三島由紀夫、全共闘は三島由紀夫のことをゴリラに例えたチラシを構内に貼ったりする。
そんな中、討論が始まるのやけれども、三島由紀夫の信念の強さに全共闘も最初はバカにしていたけれども、ちょっと驚いた表情をする。
考えが全く逆やと思っていたけれども、実は根っこは同じじゃんって全共闘側も思い始めるし、この討論会で一番凄いなって感じたのは、三島由紀夫も全共闘の人もタバコを吸っていて、全共闘側の学生が途中でタバコを切らすわけ、そのときにサッと三島由紀夫は自分のタバコを差し出すのよ。
なんてことないことかもしれないけど、こういう気概が今の右と左の人との討論でできるのか?て思う。
討論している相手の嗜好のタバコを何気なくあげる、それは他者を理解しているけれども考えの一つが自分と違うから話し合っているんだ、ていう前提があるってのを三島由紀夫の討論を見て感じた。
お互い理解しながら、ある問題に関しては認めれないから反論する。
そういう前提もなく、ただ相手を罵る。
今の時代はそんな風に感じる。
論破したから何なのって話。
論破って、その会話だけで終わる話でそれ以上なにも生まないもの。
物事を考える方法として、
"弁証法"てのがあって、これはテーゼとアンチテーゼをぶつけて、新たな答え、シンテーゼを見つけようよってことなのやけれども、最近のSNSでの議論はテーゼとアンチテーゼがぶつかって終わってるだけのように感じる。
論破合戦と、数の競い合いだけ。
ある考えと、その反対の考えがあって罵って終わりではなく、両者の答えを掛け合わせてより良い解決策(シンテーゼ)を見つけたい。
個人的にそう思う。
さてさて、言葉の単純化と前半に言ったけれども、
トゲがなくメッセージ性がめちゃくちゃある短い言葉も現実にある。
1963年8月28日、職と自由を求めた「ワシントン大行進」のときにキング牧師が演説で語った最初の言葉、「“I have a dream"」
勿論、その後の全文を読んで理解はしないといけないけれども、冒頭の「わたしには夢がある」て言葉は強いメッセージ性を感じる。
その言葉だけで色んなことを、最初に考えれるというね。
話は少し変わって、例えば牧師に限らず、芸術家も特に言葉を大事にしていると思う。
そして、芸術家から短くてメッセージ性を強く感じる言葉を我々は得ることが多い。
最近、ある歌手が、政治的メッセージを発したら、まあまあな大人の文化人が「歌手やってて知らないと思うけれど、」て、かなり失礼なことを言った。
なんじゃそれ
その人は凄く言葉にトゲのあることを言ったと思う。
言葉にかなり敏感な芸術家に、そんなトゲのある言葉、よく言えるよなと思った。
言葉の重要性、
音楽は別に政治的なことだけじゃなく例えば恋愛や友達のことや、仕事のことなどなど、色んなメッセージ性を含んでいると思う。
僕はイギリスで活動するグループ、ヤングファーザーズが好きなのやけれども、彼らは3人組でロックとHIPHOP、オルタナティブに多種多様な音楽を作る。
特に度肝抜かれたアルバムが、
2015年に発表された
『White Men Are Black Men Too』
アルバムのタイトルは翻訳すると、「白人は黒人でもある」て意味。
この一つの文でどれだけ色んなことが想像できるのだろうか。
アルバムのタイトルから凄い。
収録曲も面白くて、順番に聴いていくと、彼らの音楽のカラーがだんだんと変わるわけ。
色んな種類、ロックもHIPHOPもやっててアルバム一つで物語になってる。
このアルバムはめちゃくちゃ良いのでまた別で記事にしようと思う。
とにかく、このアルバムのタイトル『White Men Are Black Men Too』て、言葉が凄い。
言葉が単純化されて、攻撃的、排他的になる現代社会でも、こういう短い言葉でメッセージ性を創れるアーティストは凄い。
自分たちの足で立っているからこそ、そういう言葉を生み出せるのやと思う。
音楽の分野だけではなく、物を創る人はすごい。
そして、言葉は人に喜怒哀楽全ての感情を与える。
トゲのある単純化された言葉には気をつけよう。
そういう言葉を発する人を罵ったらまた言葉の暴力のサイクルが生まれる。
だからどうしたらいいか、とにかく検証。
トゲのある言葉をSNSで吐く人も何かあるかもしれない。例えば過去にSNSで罵られたりとか。
言葉によって人が傷つくことに対して、簡単に片付けてはいけないし、一過性のものにしてはならない。
と、僕は感じた。
以上。
ps
言葉についていろいろ考えることが最近増えているので、記録として書きました。
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。