ぼんくら解体新書

俺は絶対サブカル男子ではないっ!

直進車は赤やけど右折できるときのやつ🚥

こんばんは自称バームクーヘンです。


最近思うんですが、日常生活で気付かないけれどめちゃくちゃありがたいものってあると思うんですよ。


例えばベルト。

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ベルトって当たり前ですけどめっちゃ便利です。
ベルトない世界を想像してみてください。
すぐズボン落ちますよ。

それとちょっと体型変わったらズボン変えないとだめですからね。

 

履いて当たり前のズボン。
それを支えているのは一体誰なのか?
それはベルトなんですよ。
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僕は毎回、ベルトするときに感謝します。「ああ、ズボンを支えてくれてありがとう」って。


むしろズボンはもっと頑張れよと、ベルトに頼りすぎちゃうかって思うんです。
下半身衣服の主人公はズボンみたいになってますけど、事実上下半身衣服のフィクサーはベルトですからね。
ズボンはがんばれ!(紐やゴムでベルトなしでも大丈夫なズボンは除く)

 

 

それとまあ、これはねもしかしたら賛否あると思いますが感謝したい当たり前のもの。


それは道路の右折専用、左折専用レーンです。

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こいつはね、役立つときはすごい。

けども「えええ!!??普通に走ってたけどここ、右折専用なんかい!!」てなったら終わりです。

直進したくても車が多けりゃ従うしかないですから。
『IT/直進したいのに右折・左折専用レーンに入ってもうたら終わり』ですよ。

 

賛否あるけどもこいつがいることでスムーズに曲がれる。


ありがたいですねえ。

まあほんまにややこしい道路もあるんでそれは注意しときましょ。
甘えれはしないけど感謝はしとかなやられます。危ない。

 

 

そして、僕が思う当たり前やけど感謝しないといけないやつランキング1位は、、

『直進は赤やけど右折もしくは左折はしても大丈夫なときの信号機のやつ』です。

 

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これは先ほどの右折・左折専用レーンとも少し変わりますが、そいつらよりも裏切られることが少ない!
右折・左折専用レーンはたまに裏切りますからね。直進したいのに、
「右折専用レーンなんかい!」ってことがありますから。


それに比べて直進は赤やけど右折もしくは左折はしても大丈夫なときの信号機のやつは優しい優しい。
あの信号機からは「俺に任せろ、ちょっとでも時間稼ぐから今のうちに行くんや、曲がるんや」という優しさを感じます。

自分が右折するとき、めっちゃありがとうの気分。


そのとき、「ありがとう~~~泣」と思いながら僕は曲がります。
あの状態の信号機は擬人化したら絶対かっこいいわあ。
己を犠牲にして、いうならばもう体の状態としては赤信号なわけですよ、限界なのです。

それなのに、それなのに最後の力を振り絞って「おまえは曲がれ!」と、みんなを曲がらせてくれるんです。

 

前回の記事で僕は信号機が嫌いと書きましたがあの状態の信号機は好きと訂正させて頂きます。


僕は感謝します。
当たり前やけどありがとうと。

 

以上、

最後まで読んで頂きありがとうございました。

 

傘進化論

 

こんばんは自称バームクーヘンです。

いきなりですが、僕は傘がこの世で2番目に嫌いです。

(ちなみに1番は信号機です。)

 

とにかく傘が嫌いなのですよ。

傘が好きだと言う人、または傘を作る業種の人はすみません。あくまで個人の意見です。

 

傘はね、邪魔になるじゃないですか。

そして一回濡れるともう乾いている姿にはすぐに戻れない。

さらに雨が降っていないときでも「今日雨が降りそうやな?」てときには持っとかなだめじゃないですか。

そんなんめちゃくちゃですよ。

結局、降らなかったみたいなこともありますからね。

「じゃあ今日一日持ち歩いてたこの長い棒はなんやねん!」てなるわけです。

まあそれが傘なのですが。☂️

 

折りたたみ傘も同じです。いくらコンパクトに収まろうとも同じ。

むしろ畳む手間、一度濡れたら畳むのやっこい!!

一生、あの頃の姿には戻せないですから。

 

 人類は文明・文化とともに進化してきました。

移動手段は馬車から車、もっというと飛行機まで。

連絡手段も携帯やパソコン、ありとあらゆる物が用途は一緒でもまったく違うものに進化してきたわけですよ。紙や衣服、人間が新たに生んだものもあります。

 

その点、傘!、!

あなたはなに!?

一体なに!?

 

ずっと変わっていない。

一枚の写真を見ていただきたい。

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これは紀元前500年くらいの石器に描かれた傘らしいのですが、ちょっとまってくださいよ。

 

現在の一般的な傘

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同じやないか!!!!!

材質とかは変わってるにせよ、ほぼ一緒。

この進化の遅さはなに。

 

なんでこんなに傘だけ技術革新が起きないのでしょうか。

よく盗まれるし。

なんなん泣

 

僕の将来の夢が一つ増えましたよ。

僕は傘の革命児になります。

傘に革命を起こしてガイアの夜明けカンブリア宮殿とか出ますわ。

 

どうもありがとうございました。

言葉について、最近思うこと。

こんばんは自称バームクーヘンです。

 

今年の2月くらいから、新型コロナウイルスについてのニュースが多くなり、だんだんとニュース番組、ワイドショーなどで殆どの時間、コロナに関する報道ばかりになった。

そして、緊急事態宣言が発令され、街は閑散とした。

徐々に街に人は出てきたけれども、5月24日時点で北海道、東京、神奈川、埼玉、千葉の5都道県はまだ解除されていない。

 

非日常が日常化して、ステイホームやロックダウン、聴き慣れない言葉がよく使われるようになった。

習慣も変わった。

マスクして当然みたいなね。

ちっさい話やと、公共のトイレはジェットタオルが使用禁止になった。

 

いや、アレってめっちゃ不衛生やったのね。

 

コロナが収束してからもたぶん、ジェットタオルはしばらく使われないだろう。

不衛生バッテンてされたのだから。

 

コロナ以前以後で目線や意識は変わってしまう。

ジェットタオルは不衛生て全員が思うし、マスクしていない人がいたら「???」て感じる人もいるやろう。

 

こんな状況やからこそ、あまり感じたことのないストレスが皆に溜まっている気がするのも確かで、特にSNSでの人が発する言葉の強さが明らかに前よりも強くなっている気がする。

ま、テレビのコメンテーターもそう。

混乱したとき、大衆は詭弁者に引っ張られる。

強くて分かりやすい言葉に人は共感する。

そういう心理を誰でも持っている。

 

コロナのニュースと共にまあ、震災のときもそうやったが政府は特に非難される。

実際、補償などの対策を十分にしていないと個人的に思うし、スピードも遅い。

僕は大阪在住ですけど、まだマスクは来ていないしね。(5月24日時点)

 

で、政府の無能な感じが際立つと、反政府の人たちも首相と思想が似ている人も、要するに右も左もどっちも言葉が強くなる。

 

最近のTwitterハッシュタグはデモのプラカードみたいになってきていて、なんだか気分が重くなる。

 

これは政治に口を出すことに対して非難しているわけでもなく、ノンポリな訳ではなく、例えとして不快に思う人がいるかもしれないけれど、選挙カー街宣車が自分の家の前でデカい音で演説している感じ。

自分独自で政治は考えるし言うときは言うよって思う。だから、検察庁法改正のハッシュタグに関してはツイートした。

 

でも、ちょっと回数が多すぎるというか、社会問題に関して何でもかんでもハッシュタグでトレンドに挙がっているとおいおい、てなる。

 

大衆の心理、大きく人が煽動される様子。

スペインの哲学者、オルテガの著書『大衆の反逆』の言葉を思い出した。

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「大衆とは自分が皆と同じだと感じることに苦痛を覚えず、他人と自分が同じであると感じて、かえって良い気持ちになる。そのような人々全部である。さらに、自分が多数派と感じることに慢心し、多数こそが正しさだと考える慢心した坊ちゃんである」

「大衆は支配者である少数派を吸収し廃棄して、その人々の占めていた場所を占拠したのである。」

「野蛮な時代は、人間が分散する時代であり、たがいに分離し敵意をもつ小集団が、はびこる時代である。」

 

『大衆の反逆』より抜粋

 

要するに、数が多い方が真実であるとすることに危惧している訳よ。オルテガは。

 

数が多ければそれが正しいのかって言われると必ずしもそうじゃないと思うし、でも同時に声をあげることも大事やと思う。

Twitterで「〇〇の抗議に何百万RT!!いいぞ!もっとやれ!」みたいな言葉は違和感を覚える。

 

右も左も数の競い合いしているの。


そやし、右も左も排他的になっている気がする。

 

進む、分断。

違う思想の人は排除しようとする社会。

 

社会問題は簡単な言葉で片付けられないからこそ、逆に、言語の単純化が進んでいるように思う。

長々と書けないのでとりあえず単純でトゲのある言葉で相手を罵ったり、レッテル貼りしたりとかね。

例えばそれは1人の人間を「パヨク」「ネトウヨ」と認定するようなこと。

そんな3、4文字で言われる対象の人の考えが全て左翼的、もしくは右翼的であるはずがないし、人は考えることをやめて、物事を単純化しているだけじゃないの?と思う。

 

言葉の単純化、それは簡単にできるし、しかも言葉にトゲを持たせる。

大衆が大きく動くとき、それでも自分の足で立っていたい。

不安を煽ることは誰だってできるもの。

 

散々言うけれども、だからといって政治に口を出すのが問題といっているわけでもない。

それはそれで大事やけれども、もっと他者を認める前提で話し合いできればいいのにって思う。

 

直近やとSNSで「#さよなら〇〇」と、政治家に対してのハッシュタグが何万もあった。

これは首相も、野党の議員も〇〇に当てはまるが、「さよなら」て言葉と同時に名前を出してそれが広がる大衆心理の怖さ、僕はこれを覚えておく。

この時代にこんなことが起きている。

 

考えは違えど、相手を理解する。

そんな気概は現代にあるの?

 

さて、僕は今年の2月に映画『三島由紀夫vs東大全共闘』を見た。

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この映画は東大のキャンパスで行われた三島由紀夫と、全共闘との討論を描いたドキュメンタリー作品。

楯の会数人と東大に向かう三島由紀夫全共闘三島由紀夫のことをゴリラに例えたチラシを構内に貼ったりする。

そんな中、討論が始まるのやけれども、三島由紀夫の信念の強さに全共闘も最初はバカにしていたけれども、ちょっと驚いた表情をする。

 

考えが全く逆やと思っていたけれども、実は根っこは同じじゃんって全共闘側も思い始めるし、この討論会で一番凄いなって感じたのは、三島由紀夫全共闘の人もタバコを吸っていて、全共闘側の学生が途中でタバコを切らすわけ、そのときにサッと三島由紀夫は自分のタバコを差し出すのよ。

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なんてことないことかもしれないけど、こういう気概が今の右と左の人との討論でできるのか?て思う。

 

討論している相手の嗜好のタバコを何気なくあげる、それは他者を理解しているけれども考えの一つが自分と違うから話し合っているんだ、ていう前提があるってのを三島由紀夫の討論を見て感じた。

 

お互い理解しながら、ある問題に関しては認めれないから反論する。

 

そういう前提もなく、ただ相手を罵る。

今の時代はそんな風に感じる。

論破したから何なのって話。

論破って、その会話だけで終わる話でそれ以上なにも生まないもの。

 

物事を考える方法として、

"弁証法"てのがあって、これはテーゼとアンチテーゼをぶつけて、新たな答え、シンテーゼを見つけようよってことなのやけれども、最近のSNSでの議論はテーゼとアンチテーゼがぶつかって終わってるだけのように感じる。

論破合戦と、数の競い合いだけ。

 

ある考えと、その反対の考えがあって罵って終わりではなく、両者の答えを掛け合わせてより良い解決策(シンテーゼ)を見つけたい。

個人的にそう思う。

 

さてさて、言葉の単純化と前半に言ったけれども、

トゲがなくメッセージ性がめちゃくちゃある短い言葉も現実にある。

 

1963年8月28日、職と自由を求めた「ワシントン大行進」のときにキング牧師が演説で語った最初の言葉、「“I have a dream"」

勿論、その後の全文を読んで理解はしないといけないけれども、冒頭の「わたしには夢がある」て言葉は強いメッセージ性を感じる。

その言葉だけで色んなことを、最初に考えれるというね。

 

 話は少し変わって、例えば牧師に限らず、芸術家も特に言葉を大事にしていると思う。

そして、芸術家から短くてメッセージ性を強く感じる言葉を我々は得ることが多い。

 

最近、ある歌手が、政治的メッセージを発したら、まあまあな大人の文化人が「歌手やってて知らないと思うけれど、」て、かなり失礼なことを言った。

 

なんじゃそれ

 

その人は凄く言葉にトゲのあることを言ったと思う。

言葉にかなり敏感な芸術家に、そんなトゲのある言葉、よく言えるよなと思った。

 

言葉の重要性、

音楽は別に政治的なことだけじゃなく例えば恋愛や友達のことや、仕事のことなどなど、色んなメッセージ性を含んでいると思う。

 

僕はイギリスで活動するグループ、ヤングファーザーズが好きなのやけれども、彼らは3人組でロックとHIPHOPオルタナティブに多種多様な音楽を作る。

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特に度肝抜かれたアルバムが、

2015年に発表された

『White Men Are Black Men Too』

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アルバムのタイトルは翻訳すると、「白人は黒人でもある」て意味。

この一つの文でどれだけ色んなことが想像できるのだろうか。

 

アルバムのタイトルから凄い。

 

収録曲も面白くて、順番に聴いていくと、彼らの音楽のカラーがだんだんと変わるわけ。

色んな種類、ロックもHIPHOPもやっててアルバム一つで物語になってる。

このアルバムはめちゃくちゃ良いのでまた別で記事にしようと思う。

とにかく、このアルバムのタイトル『White Men Are Black Men Too』て、言葉が凄い。

 

言葉が単純化されて、攻撃的、排他的になる現代社会でも、こういう短い言葉でメッセージ性を創れるアーティストは凄い。

 

自分たちの足で立っているからこそ、そういう言葉を生み出せるのやと思う。

 

音楽の分野だけではなく、物を創る人はすごい。

そして、言葉は人に喜怒哀楽全ての感情を与える。

トゲのある単純化された言葉には気をつけよう。

そういう言葉を発する人を罵ったらまた言葉の暴力のサイクルが生まれる。

だからどうしたらいいか、とにかく検証。

トゲのある言葉をSNSで吐く人も何かあるかもしれない。例えば過去にSNSで罵られたりとか。

 

言葉によって人が傷つくことに対して、簡単に片付けてはいけないし、一過性のものにしてはならない。

 

と、僕は感じた。

 

以上。

 

ps

言葉についていろいろ考えることが最近増えているので、記録として書きました。

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

大人のおもちゃ供養する神社があってもいいと思う話。

こんばんは自称バームクーヘンです。

さて、今回は大人のおもちゃについてずっと思ってたことを書こうと思います。

 

はい、この下のは有名な男性用のオナホ、TENGAですね。

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そして、女性用、ローター。

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このように、女性用、男性用問わず、大人のおもちゃは、いくつも存在します。

男性用ではすごくコンパクトであったり、TENGAに代表されるような形状のものがあったり。

あとは人形のものがあったり。

女性用では、チン棒状でもいろんな形状のものがあります。

いろんな形のチン棒があります。

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そこでね、僕は思うわけですよ。

 

大人のおもちゃは使い捨てもあれば継続的に使えるものもありますが、悲しいかな、いつかは捨てないといけない。

 

そんな無残なことあります??

僕は言いたい。

そんな無残なことがあるのか、と。

 

さんざん使ってきたおもちゃ。

もう使わないとなったら捨てる。

悲しい!

性欲を満たしてくれたものなわけですよ。

それを簡単にゴミ箱にポイッと捨ててしまうのはどうなのかと、思うんですよ。

虚しくないですか?

「人の気持ちになって考えろ」と、皆さん小学校の時に先生に言われたことがあると思います。

 

同じようにね、「オナホの気持ちになって考えてよ」、と僕は思うんです。

なので、

僕はね、大人のおもちゃを供養する神社があっていいと思うんですよ。

本当に思い入れがあるけれどなくなくゴミの日に捨てる人がいるかもしれない。

(というか、既に大人のおもちゃを供養する神社があったらその関係者の方々すみません。)

そんな人のために神社で供養しましょうよ。

 

もしくは、もしくは、ゴミの日って各自治体にありますよね。それぞれルールが。

そのルールに全国統一で「燃えるゴミの日」、「燃えないゴミの日」、「大型ゴミの日」、「大人のおもちゃを泣く泣く捨てる日」と新たな枠を行政に設けてもらってもいいかもしれない。

今日は「大人のおもちゃを泣く泣く捨てる日」みたいなね。

 

や、ななにせよ僕は思うんです。

大人のおもちゃを供養する神社あらへんの?

ゴミの日に「大人のおもちゃを泣く泣く捨てる日」を追加しないの?

さんざん使ってポイッはあんまりだよ

そんなの。泣

 

ペニスの模型というかめっちゃ飾ってるペニス神社はありますよね。

ああいう感じで作ったらいいと思うんですよ。

 

ああ、

大人のおもちゃ、きちんと供養されて旅立ってほしい。そして星になるんや。

夜空の向こうに見える星々は人類が使った大人のおもちゃ。

それか本当にロケットで遥か彼方まで使用済みの大人のおもちゃを飛ばすのも良いかもしれないですね。

大人のおもちゃが何億年と宇宙を旅するわけですよ。

オナホが彗星となり、流れ星になってもいい。

話が大きくなりすぎたので終わります。

 

以上、大人のおもちゃ供養する神社があってもいいと思う話。でした

 

おわり。

映画『君が君で君だ』超純愛という名のカルト。

こんばんは‪自称バームクーヘンです。

今回は映画『君が君で君だ』について書きたいと思います。

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監督は松居大悟。

松居さんは映画『アフロ田中』監督や、数々のミュージシャンのミュージックビデオの監督もしており、撮った作品は一部ですが、以下になります。

大森靖子さん『ミッドナイト清純異性交遊』、銀杏BOYZ『エンジェルベイビー』、クリープハイプ『オレンジ』『社会の窓』『ラブホテル』『二十九、三十』etc..

 

かなりというか、手掛けた作品の殆どが男女の恋愛を題材にしたものなんですよ。

そして映画『君が君で君だ』も松居さんオリジナル脚本で恋愛というか、もう、度がすぎた、"超恋愛"映画なんですよ。

映画のポスターでは"超純愛"とも謳われてますが、"超"がつくということは単なる純愛ではない、というか違うともいえると思います。

実際、とんでもない恋愛映画なんですよ。

 

 

⚠︎ここからネタバレ⚠︎

 

 

ざっくりストーリー、男3人はある女性が好きでその女性に告白するのではなく、10年間にわたり、ストーカー行為をし、彼女が好きな人に3人それぞれがなりきる。

彼女はクズ男と同棲しており、そのクズ男の借金を返す目的で風俗店に勤めたりします。

 そしてあることがきっかけで男3人の10年間にわたるストーカー行為が彼女にバレてしまう。

取り立て屋は3人の男の家にやってくるし、好きな人にはストーカー行為がバレるし、もう物語はカオスな状態になっていくというような物語です。

 

ではでは、

〜制度からの解脱〜

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前置きでも書きましたが、この映画は超純愛と謳われてますが、「凄く純愛」とは全然違うんですよ。

むしろ純愛ではない。

言うならば男3人の異常な愛情。

男3人は名前も身分も何もかも捨ててストーカー行為を目的に、3人で彼女の家の向かいのアパートに住み、盗聴器も仕掛け、24時間いつでも監視状態の部屋を作ります。

彼らの行為は勿論、犯罪であり、10年間それを続けているんですね。

3人とも、名前も好きな人が好きな人に変わり、社会的活動も全くしてない状態、つまりは社会という制度からの解脱をした人間であり、池松壮亮は好きな女性が好きな、尾崎豊になりきり、満島真之介は『ファイトクラブ』でのブラピになり、大倉孝二坂本龍馬になりきる。‬
‪好きな人が好きな人やものを自分も好きになるというのは一般的な恋愛でもあると思いますが、この映画のそれは常軌を逸しています。


‪だって、ストーカーしてるからその男たちは他人になりきっても、彼女に見られることはないんだもの!!

 

‬なのに、彼女を意識して彼女が好きな人になりきって10年間過ごしている。

これは異常な愛情ですよ。

‪そこにこの映画の奇妙さはあると感じます。‬‪見られないのに社会という制度から抜けてまで他人になりきる。面白いですねえ。

更に、彼女の彼氏が相当なクズ男でも助けようせず、その彼氏を「王子」と呼ぶ。もはやカルト集団です。

彼らにとって社会的に何が善で悪かなんてもはやどうでもよくなってるんですよ。

なにせ、3人は社会という制度から抜けてますから。

そこに常識は通用しないのです。

なので序盤に好きな人の家へ借金取りが来て、男3人が慌てふためいていると、その騒ぎに気付いた借金取りが男3人が住むアパートにやってくるのですが、もちろん、部屋は好きな人の盗撮写真ダラケなわけです。

取り立て屋も社会からは離れた身分ですが、流石にその男たちの異常さに気付き、ストーカー行為に対して、「犯罪だろ?」て言うんですよ。

ですが、3人は犯罪とか以前に社会という制度からは離れてますから、「はい?」と、とぼけるんです。

好きな人をストーカーすること自体が彼らの"社会"になっているわけですね。

それを表すように、男3人は自分たちが住んでいる部屋を「彼女を守る"国"」と呼びます。

 

ただ、守るとは言えども実際なにもしません。

ただ、ストーカーし、彼女が食べるものを同時間帯に食べたり、彼女と同じ格好をその"国"で行うのみです。

彼女を勝手に教祖にしたカルト集団ですねこりゃ。

3人ともその異常な愛情に気付いてないんです。

目的は彼女と付き合うとか、結婚したいとかではないように感じます。

彼女を守る国、を守ることがストーカーの動機になって本来の目的から逆転してるんですよ。

彼女を守りたいからストーカーをし、国を作っているというよりもとにかく、その自分たちの国をそのままにしときたい。

変化は許されない。

だから、坂本龍馬になりきる大倉孝二は一度、国の掟を破いたために国の中で鎖で繋がれ、外に出れないようにされている。

国は鎖国し外部からの情報を遮断(自分たちの現実を知り変わってしまうから)、知るのは好きなあの娘のことのみで、あの娘に近づくなどの掟を破る者は鎖で繋がれる訳です。

 

国に住む男たちは変化を拒みます。

では、10年間もストーカーされている彼女はどうか?

 

 

〜変化を拒む男たちと変化する彼女〜

10年間、彼女を追っているわけですから男3人は彼女の数々の楽しい出来事や苦い思い出を知っています。

そして、苦い事がある度に彼女は"自分が思い描いていた未来像"から離れていく。

良いか悪いかは置いておいて、変化し続けているわけですよ。

自分たちの変化を拒み、国にすがり続ける男3人と、自分が思ってない方向だけれども、変化する彼女。

 

これは男3人視点でみると、彼女が変化し続けちゃうから自分たちは、自分たちの国だけはそのままで保ち続けよう、周りとか身分とか関係ない、そのままでいようと思うことに繋がっているかもしれません。

だから信じられないことに10年間も同じようにストーカーし、同じ格好で日常を過ごす。

「王子」が家にやってきたときも「王子」を攻めるシーンがあります、アレは「お前のせいでどんどん彼女が変わるじゃないか」ていう意思表明だと思いました。

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お前がクズだから、とかではなく、彼女が変わるから、が攻める理由なんです。

変化を拒む男と変化していく女性という構図がここでわかります。

ただし、時たま、男たちの中で自問自答しているようなシーンもあります。

このままでいいのか?というような。

 

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取り立て屋のYOUに「あんたらが守ってんのはあの部屋(国)でしょ?もう彼女に気持ちとかないじゃん。あんたらがやってること正しいと思ってるの?」と問われた際に、

鎖から外された坂本龍馬になりきる大倉孝二は「俺は今、なにしてるのかわかりません...ぜよ」と言います。

実際にわかってきているし、動機が好きなんじゃなくて国を守るために彼女をストーカーしていることに気付き、変化してないこともわかってるんですよ。男たちは。

でももう止められない、やめられない、変化できなき領域まできちゃってるんです。

自分たちが異常かと思いながらも変化を拒み続ける。

 

異常な愛情からの解脱〜

前述したように、変化を拒み、彼女を守る国を守ることに必死になる男たち。

目的は彼女が好きなんじゃなく、環境の変化を受け入れられない、そのままでいたいという願望から10年間彼らはストーカー行為という名の元でずっと彼女にすがっています。

 

変化できない、単に変わりたくない男たちだったのですね。

 

なので変化する彼女を更に更に追いかけてしまう。

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しかしながら物語中盤、クズ男から「好きっていえばいいじゃないですか!!!」と池松壮亮が逆に攻められ、彼女からきた着信の電話を「出ろよ」とクズ男から池松にケータイを渡そうとしますが、池松は好きなあの娘からの電話に出ません。

結果、電話を出ずに、そのシーンは終わります。

結局、池松はあの娘と話さなかった。

それは何故か?

好きということ、喋ること、それは現状から関係性が変わってしまうからです。

好きな彼女が人生に絶望し、自宅で首を吊ろうとしても男3人は何もしない。尾崎豊の歌を歌うのみです。

彼女はなんとか死ぬ前に取り立て屋に助けられて命は無事でした。

 

そしてそれは彼女を守る国は崩壊していたことが明らかにわかる出来事でした。

彼女が命を断つことを止めなかった、男3人。

所詮、変化を受け入れれない男達は何もできない。

 

死=最後の変化

に対して止める勇気もなく、国が終わることに怯えているようにも思えました。

 

彼女がこちらを向いてくれないことを受け入れず、彼女と出会った日のことを忘れられず、好きな人の好きな人になりきる、そういった変化を拒むための国であることがわかった瞬間です。

そしてそのシーンのあと、ビデオ風な映像で池松壮亮の高校時代の映像が急に流れます。

そのシーンは池松自身もこれまで、人間として変化してきたことを視覚的に表す役目を果たしていると思いました。

頭の中で、池松も、自分も変化してきたんだとわかった。

ただ、池松は自分が10年間守ってきた城は崩せない。

それでも尚、国は滅んでいないと、変化を拒みます。

 

彼女は首吊り事件後、病院に入院するのですが、入院中、ベッドで泣き、そこから回想シーンに入ります。

 10年間自分が望まない方向に変わってきたこと、変わってしまったこと、そしてその10年間、ストーカーされてることに気付いていたこと、ストーカーしてきた男たちは変化してなかったこと、何もしてくれなかったこと、

それが回想するシーンでわかります。

変化した側の変化してない者たちへの悔しさと何とも言えない感情。

社会という制度の中で生きている以上は、勝手に変わってしまうのですから。

彼らが異常ではあるが、若干の憧れ(に、近い感情)を持つこともおかしなことではないかもしれません。

 

その後、

ストーカー行為が彼女にバレ、崩壊したその国に彼女がやってきます。

「私の何を見てきたの」

と、彼女は言い、過去の自分の写真を壁から剥がします。

が、池松壮亮は冷静に「変わらないロングヘア、素敵ですね」と言うんですよ。

すぐに彼女はハサミを取り、自分の髪をばっさり切るのですが、髪をばっさり切る。

男3人の目の前で変化、変体することを見せるんですよ、彼女は。

だけれども男は彼女の変化を受け入れられない。

 

なので、その国の主人、池松壮亮は無我夢中でその、切った彼女の髪の毛を食べようとする。

変化を拒むのですよ。

そんなはずはない、と。

彼女はクズ男を刺し、男3人も自分たちの現状に「もう終わりだ」と言います。

彼女に国の存在がわかってしまった以上、彼らも変化することになりますから。

 

次第に満島真之介は洗脳から解けたように

泣きながら「全部どうでもいい、おれ、やめるわ」と、国を出ます。

大倉孝二は強制的に池松によって国から追い出されたので、異常な愛情なのはもう池松壮亮のみ。

 

池松も、自分1人になって彼女が遠くへ行く際にその国から飛び出して彼女を追いかけ、

「僕は僕です」と、満島真之介と同じく自分たちが作りあげた国の洗脳から解けたように彼女に告白するんですよ。

当たり前ですが、彼女にとっては意味不明なので断られ、何もできない、何もしてくれなかったことを伝えられるのですが、これまた池松。

持ってた花を食べ、海に走っていきます。

自分も彼女の変化も受け入れるしかないと理解できたのでしょう。

 

〜裏テーマはメタモルフォーゼ(変身)〜

 

10年間保ち続けた国を去り、旅立つ男。

韓国に帰る女性を最後に追いかけるのですが、空港で会えたかはわからない。

法外に生きた男の物語。

最後まで男は彼女にほとんど何もできなかった。

とても興味深かったです。

男たちが、ある目的のために10年間変化を拒んだことも含め。

 

変化を拒む男と変化する女性。

そういう視点で見てもいいのかもしれません。

 

君が君であること、僕が僕であることはなんでしょうか?

変化しないのが、僕であることなのか。

映画『君が君で君だ』は、僕は僕で、"君"には変化して欲しくないという男たちの感情を映像化した作品だと思いました。

人間、勿論男女問わず、勝手に変化してしまう。

それが悪い方向かもしれないが、変化はしないといけない。サナギの状態じゃそこから何もできない。

最後に男たちも脱皮し、変わった。

変化してきた彼女も飛行機に乗り、旅立つ。

いわば羽を広げてサナギから蝶になるよう、空に飛び立った。新たな変身です。

ほんとは、変化し続けるのが僕が僕である理由で、君が君である理由なのでしょう。

 

人間のメタモルフォーゼ(変身)が裏テーマの映画かな。

 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

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大森靖子さん『GIRL'S GIRL』を聴いて。

こんばんは自称バームクーヘンです。

今回は大森靖子さんの曲、『GIRL'S GIRL』について書きたいと思います。

これまで大森さんの著書『超歌手』や曲『死神』について書いてきました。

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『死神』の記事では大森靖子さんの独特な表現方法について書きました。前回記事がかなり前なので振り返ります。

 

〜死神の歌詞について〜

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生を表現する上で、そのほとんどが「生きているから死ぬことが尊い」とされますが、僕はその逆、 「死ぬから生きることが尊い」という表現の仕方も存在していいと思います。

『死神』のMVでは死を連想させるシーンが次々と映されます。

ただし、それを美しく大森靖子さんは表現している。

僕が思うに、大森さんは「普通ならこうだろう」というところを''あえて''逆を見せてから伝えたいことを表現します。大森さんは普通という概念に囚われません。

『死神』も死というワードを使って生を歌っている。そしてあえてマイナスなことを歌うことで、自分自身や他者について考えさせる。

私ってなに?あなたってなに?世界ってなに?

そういう日常の素朴ですが、壮大な疑問に曲で答えようと試みているように感じます。超歌手として。

 

さて死神の歌詞にて、

 

ー履歴書は全部嘘でした 美容室でも嘘を名乗りましたー

 

羅列される嘘、繰り返される嘘、このように本当の自分というよりも嘘をついた自分が先に形成されます。

だからこそ本当の自分が際立つと思います。

 

さらに、

 

ーいつか別れるかもしれないから 形あるものは全ていらないー

 

ここでは「不透明な未来」がまず提示されます。

あえて、マイナスから導入し、曲の世界観へダイブさせるのです。

そのために、そう考えるとき相手の存在の''唯一性''が際立つと思います。

どんどん逆から表現する方法は用いられます。

 

「いつか別れるかもしれない」

と、無い未来を最初に提示して聴く側に相手との関係性、それが''流動的(つまりは誰でもいいような状態)''なのか、''唯一の存在''なのか考えさせるわけです。

 

ところで、物事には二面性があります。

〇〇であるが同時に□□である。

その、〇〇と□□の両方の要素を思考することが大事だと僕は思います。

それを踏まえないと、物事の一面だけを考えて悩んでしまい、自分の首をしめてしまう。

 

『死神』はあえて自分にとってマイナスなことを提示することで聴く側に''考えさせる判断''を委ねます。

 

見た目や体裁に捉われる社会や日常、どうせそれは変わらないし変えたくても変えられない。曲のメッセージとしては「どうせ社会はクソなんだから、個人ベースで日常を密にしよう」ということだと、僕は感じました。

 

はい、ここまでが『死神』についてです。

さて、『GIRL'S GIRL』はどうでしょうか。

『死神』では死から生の尊さを歌いました。

『GIRL'S GIRL』の歌詞で代表されるのはこの歌詞ではないでしょうか。

 

ーGIRL'S GIRL 女の子って最高
GIRL'S GIRL 女の子って最低ー

 

最高と最低。

この曲で大森さんは両極端の概念の振り幅を上手く使い、表現しています。

最高と最低、物事には二面性があることがここで表現されます。

『GIRL'S GIRL』

この曲が物語とするならば、この曲の登場人物の女性は漠然と悩んでいることがまず提示されます。

 

ー私はいつ完成するのかな
とりあえずみたいな自分で誤魔化してる
完成した私で恋とか仕事とか
お茶とか自撮りとかしたいのにー

 

随所に''何者にもなれない自分''を表現する歌詞があります。

そのような歌詞が並んだ後に、「最高ー最低」と歌ってる。

あえて、悩んでいる事実や思考を羅列させた後で、最高と歌います。

それでも自分で、自分を肯定する。

その後で最低と歌う。

自分はもっともっと最高になれる。

だけれど勿論、最低な部分も人間だからある。

最高で最低な自分、最低で最高な自分。つまり『GIRL'S GIRL』はかわいいがテーマの人間賛歌です。

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さて、そもそも''かわいい''とは一体なんでしょうか。

僕は、最近、SNSをはじめとして''かわいい''が流動的かつ、消費されるものになってきていると感じます。

消費されるということは終わりがないということであり、しかも流動的。

であるならば、最後まで満たされないのは当然。

終わりがないわけですから。

それは歌詞の、

 

ー私はいつ完成するのかな
とりあえずみたいな自分で誤魔化してる
完成した私で恋とか仕事とか
お茶とか自撮りとかしたいのにー

 

で表現されていると思います。

三者の目線によってかわいいが消費されてしまい、自分を認めれなくなってしまう。

自分は間違っていないのに、社会の大きな流れのせいで''かわいいの呪縛''を背負ってしまう。

 

むやみにかわいいとはこれだ!とカテゴライズはしたくないので過去50年間ほどで変化してきた''かわいい''の意味や概念について調べてみました。

それを知ることで如何に現代の社会が空洞化してきているか、その空洞に自分は悪くないのに巻き込まれてしまっているのか理解でき、呪縛から抜け出せるかもしれない。

 

 まず、60年代初頭までは「性愛」と、「可愛い」は離れたものでした。

噛み砕いていうとエロと可愛さはリンクしない、むしろ対極にあるものという感じですね。

そのような解釈は半ば、女性が抑圧されていた時代を悪くも象徴しているようにも感じます。

女性はこうあるべき、男性像はこう、みたいにレッテルで男女を決めてしまう感じ。

そして抑圧。

性教育で、異性は性的なものなのに性的なものじゃないとされている感じですね。

このような思考の性教育は未だに日本には存在していると思います。

 

 60年代は少女漫画が流行します。

それは少女漫画的可愛さの元年と言えるでしょう。

わかりやすい可愛さ=それが可愛いという感じでしょうか。

それがゆるやかな変化をしながらも70年代も続きます。

 

 80年代、可愛いは自閉的なものでした。

自分の中で可愛いと思い、自分の中でその可愛さは浪費される時代です。

重要なのは、ここまでの時代は''可愛い''を消費はしていなかったという点です。

勿論、可愛い雑誌や可愛いヒロインの物語を読んで、見て、その本や映画やドラマを消費するということはありますが、そのこと自体、つまりはその物語に含まれる''可愛い''をひたすらに供給者は生産し消費者が消費するというものではなかったのです。

 

しかし、''可愛い''は徐々に社交ツールになります。

個人で「可愛い」と思うよりも、「これって可愛いよね、?」と他者と共有していくモノに変わっていきます。

そして80年代後半には性別問わず「かわいい」が適用されていき、90年代にはどんどん可愛いの適用範囲が広がり、人と共有されるもの、消費するものへと定着していきます。

 

そのようにして''可愛い''という概念も個人から共有そして消費するものになる訳です。

 

そして2000年代、かわいさの適用範囲はさらに拡大、大量生産大量消費されていきます。もう、消費されるモノになっていく。

誰にも止められません。

2010年以降、いよいよそれが溢れ出ます。

それ故に弊害、流動性あるものになり、かわいいが徐々に強迫観念へ変わっていきます。

「かわいくなきゃダメ」「もっとかわいくならないとダメ」という風に変化してきたのです。

 

かわいいという概念は、人に消費されるものでも大量生産されるものでもない。

消費する側はどんどん求め、対象となる人は満たされないままでいてしまう。

消費する側が「もっともっと」と、欲望が肥大化していく訳ですよ。

それ故、''可愛い''と思われる当事者が重しを背負うことになる。

さらに、snsでの承認欲求が密接に交わり、どんどん社会の空洞化の歯車の中で苦しんでしまう。

 

大きな社会の流れがそうさせてしまっているのであって、個人は悪くありません。大丈夫。

かといっても、そんな大きな流れに個人が対抗するのも体力を使ってしまう。

あえて抵抗しないことが最善の方法かと思いますが、それもとりあえずの策にしかならない。

そんな時代に、「あなたは大丈夫」「あなたの存在は大丈夫」だと、大森靖子さんは歌っているのではないでしょうか、大森靖子さんの唯一の音楽で。

しかしこのように解釈したとしてもホントの所は本人、当事者にしかわからない。

だからこそ大森靖子さんは歌い続けるのではないでしょうか、歌詞にするのではないでしょうか。

 

「わかってほしいとか思わないけど
わからないとかちょっとどうかと思う」

 

『GIRL'S GIRL』の曲の意味を要約すればこうだと僕は思いました。

 

「理解して欲しいけれど、私を完全に求めて欲しくはない」

 

僕はそんな風なメッセージを感じました。

 

以上

最後まで読んで頂きありがとうございました。

 

 

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映画『ミッドサマー』

こんばんは自称バームクーヘンです。

今回は『ミッドサマー』の感想を書きたいと思います。映画全体の解説とかではなく、ただ単に僕がこの映画を見て感じたことを書いています。

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⚠︎以下、ネタバレ注意⚠︎

 

 

〜あらすじ〜

アメリカで文化人類学を専攻している大学院生達がスウェーデンの特殊コミュニティを訪れる話。

主人公はダニー。

ダニーは家族が無理心中しそれに悩まされ、彼氏のクリスチャンは同情し別れ話を切り出せない。

 そんな2人と友人たちでスウェーデンの村(ホルガ)を訪れるが、カルトな世界観に引き込まれていき、後戻りできない。

気付いた時には、どんどん部外者は消されていき村では理解し難い儀式が次々と行われていく。

ざっくりこんな話です。

 

〜失われた共同体、求める共同体的意識〜

 

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▪️実は壊れていた共同体

 大学院生たちはホルガ(コミュニティの名前)を訪れますが、それはあくまで文化人類学の研究という目的のため。

時折、ダニー(主人公)とクリスチャン(ダニーの彼氏)の関係性が実質、壊れていることが描かれます。

ダニーに同情してずるずると付き合っているクリスチャンと、私生活のトラウマで人間不信になっているダニー。

そしてクリスチャンの友人達も"知人"どまりで親交がかなり深いようには見えない。

つまりは大学院生たちのよくあるコミュニティのカタチは作れているけれど、既に彼らの関係性のキズナは崩れているんですよ。

彼らのミニ共同体は破たんしているわけです。

 さて、彼らは大学院生になって文化人類学を研究しているエリートですが、エリートがカルト宗教やマルチ商法の組織に入るのは日本でもよく聞きますし、同級生がそうなった、みたいな話もよくありますよね。

何故、意識高い系がそういう団体に入り込んでしまうのでしょうか。

それは一概には言えませんが、エリートは上を目指して頑張った結果「実は未来に希望はなかった」とか「これだけ頑張ったのに日常は何も変わらない」と気付いてしまい、そこへ怪しい団体が誘いにくるのだと思います。

小学生のときから親からの重圧で刺激を我慢し続けた結果、一度その刺激にハマると抜け出せないという風に、カルト宗教によるナンチャッテ神秘体験もそれが真実だと思ってしまうのです。

 日本ではオウム真理教はエリートだらけでしたし、知識がある故に一度神秘的な体験をしたり、心に入り込まれると一つの思考に固執して、それを盲信するということがあると思います。

 

▪️ホルガという共同体

 大学院生たちの"実は壊れていた友人達との共同体"に対して、ホルガのコミュニティはカルト宗教の名の下、統制が取れています。

だから、彼らはあのコミュニティを心理的に絶対悪とは思えない。

自分たちのコミュニティは空虚な訳ですから。

 さらに、彼らは文化人類学を研究しているために、安直に"此処はこういう文化なんだ"と断定しむしろ興味関心を持ちます。

劇中でも、高齢になったとして崖から飛び降りなければならないという儀式に皆、動揺しますが、クリスチャンは「そういう文化なんだよ」とダニーに言います。

 さらにホルガという共同体が行う奇妙な儀式を文化なんだ、と断定し倫理観が揺らいだ結果、次第にホルガに対しての違和感を持つことがなくなっていきます。

そして、壊れていたコミュニティ(大学生)と、全体主義で構成されているカルト宗教が交わるとき、大学院生たちに心情の変化が起こります。

それは自分たちのコミュニティから離れたとき、そのコミュニティは既に壊れてたと深層心理で気付いてしまい、"此処ではないどこかへ行きたい"、"この終わりのない日常から抜け出したい"という探究心がホルガのコミュニティへと更に導くわけです。

知っていたつもりの社会が壊れていたと知り、知らない世界へ、どんどんカオスに物語は展開していきます。

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〜日常から非日常へ〜

▪️マインド・コントロール

 新興宗教ではマインド・コントロールを使い、神秘体験を感じさせ入信させる技法があります。

まず、その神秘体験を感じさせる手段として日常的体験から非日常的体感を繰り返し行い、その振り幅を大きくすることで精神的に揺さぶられるように"フック"を仕掛けます。信者のたまごを変性意識状態にさせ、より一層こちら側へ引き込むようにするのです。そのフックを仕掛けたら最後、洗脳状態のためカルト宗教の思いのままに操られてしまいます。

フックを仕掛けるために変性意識状態になって貰うよう、訪れた外部者には一度、このコミュニティは安心だと認識させ、突然に見たことない景色を見せたり儀式に参加させたりする。

ミッドサマーでもそれは行われてました。

ホルガに来てすぐに、若い村人と話したり、なんてことないビデオをみんなで見ようよ!と誘われたり。

そんな日常から急に非日常体験をさせます。

ホルガから大学院生たちへ与えられる薬草や儀式。

次第に儀式を神秘体験だと、大学院生たちは倫理の範疇を超えて感じてしまうのですよ。

クスリを使ってマインド・コントロールするのもよくある手法です。感性を刺激させてイカれた行為をそれがクスリのせいなのに、神秘体験だと認識させるためです。もっと言えばホルガはクスリ系が溢れているので、クスリによって得られる刺激を修行の一環としているのかも、しれません。

クスリの幻覚=修行の成果とみなす。

 これはオウム真理教でも行われてました。ただ、人が時間という概念で生きている以上、時間をかけたクスリによる刺激もない修行と、クスリのソレは比べ物にならないのでクスリの刺激からの幻覚を宗教の修行の成果とするならばそれはイカサマです。

何故なら単純に神秘体験をするにあたって、長い時間をかけていないから。

人間が時間と空間の概念で生きている以上、クスリによる幻覚症状では長い時間とその空間から得られる体験には勝らないのです。

 

 しかしながら大学院生たちは薬草により、幻覚状態になり、それを神秘体験だ。こういう文化(宗教)だと断定してしまう。なので「この村イカれてんな」て思っても、もう出れない。

ましてや神秘体験をしながら深層心理の中で幾らこの村がおかしくても、「現に自分たちのコミュニティは壊れているが、この村のコミュニティは保たれ、共同体として成立し、輪となり全員が笑っている。つまりはここが求めていた共同体の地、文化人類学の探究心が満たされる地」と、同時に感じるのです。

簡単に言えば、"ここは楽園モード"になるんですよ。

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 このように日常と非日常体験の振り幅を大きくすることで精神的に正常な判断ができずにして、カルト側へ引き込まれていきます。

また、「僕、私だけが神秘体験を"この場所・あの人物によって体験できた"」というような盲信をもします。

 

新興宗教による神秘体験〜

▪️神秘体験と神秘現象の存在

 神秘体験というと、新興宗教に限らず、日常生活で体験したことがある人がいるかもしれません。(心霊現象等)

 ただ、実際にその神秘体験が真実であったかどうかはわからないのです。

心理学者のユングは「神秘体験の存在は神秘現象の存在を意味しない。」と述べました。

つまりは個人が神秘体験と思っても、それ自体が真実かどうか(存在するかしないか)の判断基準にはならないのです。

 経験論を交えると、人が体験したことはその人しか理解できない、が、その体験したことの事象そのものが本当に存在するのかはわからないのです。

もしかしたら神秘と思っていたものは、勘違いや偶然かもしれない。

しかしながら、勘違いでも体験したことはその人しか理解できません。

ここで重要なのが、その人しか経験論的に体験を理解できないにしても、その人がその神秘体験を真実と思ってしまうか、ある程度距離を取れるかです。

 "神秘体験イコール真実"と盲信してしまうと、どんどんカルト宗教にハマっていってしまいます。

あくまで神秘体験は真実ではないのです。

ホルガに訪れた大学院生たちはホルガの儀式に神秘性を見出し、それはその村での真実であり、文化人類学上も興味深いと考えてしまいます。

「ホルガを論文の題材にする」とクリスチャンが途中で言い出したのもそうですね。

完全にホルガという共同体から神秘体験を得て、それを信じてしまった。

 

〜刺激を求める人間〜

▪️日常の退屈さ

 同情の上で成り立つカップルのダニーとクリスチャン、さらに周りの知人。彼らはアメリカのごく普通の大学院生ですが、こういう若者たちが安直にカルトの地に踏み入れ、とんでもないことが起きてしまうというのは映画のジャンルとしてあります。

最近の映画では『グリーンインフェルノ』がそうでした。

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掘り出せばもっとありますがジャンルとして、いわゆる普通のなんてことない日常を過ごす人がその人にとって非日常の地に行き、事件に巻き込まれる物語はある訳ですが、何故そのような物語が多く存在するのでしょうか。

それは普通と思っていたことはある人にとって普通ではなかった、とも言えますが、そもそもそういう危険な地に行くこと自体が我々、人間の本質を写していると思うのです。

つまりは"終わらない日常を終わらせる"ために刺激を求める。

刺激を目的として危険な地、未開の地に行く。

ミッドサマーでも大学院生たちは"刺激"を求めて研究という名の元、ホルガに行きました。

さて、ここでさらに言えるのは我々人間はそもそも刺激を求める性質を持っているということです。

 

哲学者ニーチェは『悦ばしき知識』にて、以下のことを述べています。

 

「いま、幾百万のヨーロッパ人は退屈で死にそうになっている。彼らは何としてでも何かに苦しみたいという欲望を持っている。その理由は苦しみの中から自分が行動を起こすためのもっともらしい理由を引き出したいからだ。」

 

つまり、退屈で死にそうな人間は何か行動するための動機がないことの方がよっほど苦しく、それならばいっそのこと、"動機付けのための苦しみを得たい"ということです。

ここで退屈というキーワードが出てきますが、退屈について様々な哲学者たちが論じてきました。

ラッセルの退屈論では、「人々は何不自由ない生活をするが、何か満たされない、そして人は退屈から逃れようとし、今日と昨日を区別してくれるものを求める。今日と昨日を区別してくれるもの、それが刺激であり事件である。

事件が起きれば、終わりなき日常の反復は断ち切られるが、そうした事件はなかなか起きない。

そのために人々は事件を望むのだ。」

 

最終的にラッセルは退屈論をこう纏めます。

 

"ひとことで言えば、退屈の反対は快楽ではなく、興奮(刺激)である"

 

退屈しているとき、人は楽しくないと思っています。が、退屈から逃れるために興奮を求めるとき、人間は「興奮できれば何でもいい」と考え、そうなれば興奮できること自体も何だっていいとなり、それが不幸なことかどうかは二の次になるということです。

 人々は退屈から逃れるために興奮を求める。

社会学者ロジェカイヨワの『戦争論』でも「人間は刺激を常に求め、それにより陶酔し満悦する心を持ち日常を保つ。が故に危険をも顧みずに日常から離れた刺激=戦争に走ってしまう。これは刺激のある祭りを求める人間の性質と変わらない」と述べました。

 

まあ、要するに多くの哲学者たちも述べていますが、人間は何でもいいから日常の退屈から逃れたいし、何か行動したい、そのためには良いことか不幸なことか関係なく刺激を求めるし、その刺激によって明日生きれる糧を作るということですし、それが人間の本質ということです。

 

 ホルガに訪れる大学院生たちの心情も社会学の観点から見ればそのような刺激を求める人間の性質を写していると僕は思います。

興奮できれば何だっていいんですよ。人間は。

そういう愚かな人間の性質を写しているのも面白いなと、思いました。

だから大学院生たちは平気で訪れた村ではっちゃけますし、共同体や非日常にどんどん飲み込まれる。ヤバイと思っても、卒論の動機付けのために危険も厭わない。

刺激を得ることで卒論を書く動機になりますし、終わりなき日常から解き放たれる訳ですから。

ただ、そんな考えは甘く、カルト宗教の共同体の犠牲にされていくのですが、

 

〜物語のラスト〜

▪️ダニーの求める地

 ホルガではクイーンを選ぶ儀式をするのですが、その儀式にてダニーがクイーンに選ばれます。

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ダニーはたくさんの花に包まれ、一方のクリスチャンは動けないし、喋れない状態、つまりは"個を失くした象徴"とされます。

これはダニーにも言えることで、ダニーは喋れますが、花で囲まれることにより行動の制限がかけられます。物語のラストは2人とも立場は違えど個を失くし、全体主義のホルガという共同体に飲み込まれたことを現しています。

クリスチャンは村に新たな生命を宿すだけの道具として消費されますが、ホルガは元々、生まれた時に役割を与えられる習慣があります。これは劇中でも少しだけ語られます。

 生まれた時から役割を与える、ということはそもそもホルガに個人という考えはなく、共同体を維持するために個人が存在し、個の尊重はされません。

そのために、生まれたときに"守る"ことを役割にされた村人は大学院生の一人が聖なる木にしょんべんをしたときに一人だけ物凄く怒り悲しみます。

これは聖なる木が汚されたことが原因ですが、それよりも守る役割を与えられてた自分が止められなかったことに怒り悲しんでいたのでしょう。

そのために、周りの村人よりも断然に1人だけ怒っていました。

個を捨て、全体主義の共同体として機能するホルガ。

最終的にはダニー以外の部外者は犠牲になり、クリスチャンも焼かれてしまいます。

そして映画の最後のシーンは花に包まれたダニーの笑顔でした。

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何故、笑顔なのか?

それは、「やっと共同体にかえれた。私にとって、ここではないどこかはここだったんだ」と自覚したからでしょう。

喜怒哀楽、ホルガでは住民が共有します。

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悦びの儀式のときには共に悦び、悲しみの儀式では皆で悲しむ。それがホルガの共同体としての意識なのです。

思えば、これまでダニーの喜怒哀楽は時折、描かれましたがその都度殆どの人はダニーに寄り添ってくれませんでした。彼氏のクリスチャンも同情するのみ。

劇中で寄り添っていたのはホルガ出身で信者のペレです。

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 喜怒哀楽をみなで補填し合い、共有するホルガはダニーにとって安心の地になったのでしょう。

ただ、その一方で最後の儀式のときに、「痛くないから」といってその言葉に安心したものの、結局焼かれるときに叫んでいたホルガの住人。

あれも喜怒哀楽を共同体に意識させるための習慣なのでしょう。個人はホルガにないですから。その人が喜ぼうが悲しもうが関係ない。実際に楽しくても痛くても関係がない。だからホルガの人たちは皆、終始笑顔ですし、個人が痛いことは置いといて痛いということを皆で共有するのみ。無表情のときは皆が無表情なのです。

さらに、高齢になったから死なないといけないというのも理不尽すぎますが、高齢化により、個が役割を全うできなくなり、共同体の中で個人を助けないといけない状態になる。それは役割から更に組織を作る、組織を作ることは個人を尊重することに繋がりますから、ホルガはそれよりも、とりあえず儀式として死んでもらい、その生を共同体の中で共有しとこうということでしょう。

 共同体維持のために個人を排除するホルガ、恐ろしいですねえ。

これは映画ですが、カルト宗教にはホルガと似たような構図で組織される団体も多くあるでしょう。

 

カルト宗教にハマる過程を存分に描いている映画だと思うのでヤバイ団体にハマりそうなときはミッドサマーを思い出しましょう。

あぶないあぶない

 

はい、最後まで読んで頂きありがとうございました。

 

さてさて、

WEBマガジン フラスコ飯店にて『ミッドサマー』について私が執筆した記事もございますので下記リンク先からぜひご一読のほど、よろしくお願いします↓

https://frasco-htn.com/review/movie/3959/

 

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ps

エンディング曲ハマりますよね。

あの曲はフランキー・ヴァリの「太陽はもう輝かない」だそうです。

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それではまた